2020年03月15日

小出遥子の丹田瞑想

丹田を意識する

Haruko-koide.jpg 会陰を意識しながら、吐く息とともに、頭のてっぺんから、ひと息毎にゆっくりと意識を下の方に降ろしていって、胴体を通過させる。最終的には、臍の下(臍下三寸。すなわち、9センチ)の胴体の奥の方に、降ろしてきた意識がすべて「すっ」とおさまってしまう感覚が生まれてくる。この意識がおさまったところを「丹田」と呼ぶ。「丹田」は、点でも面でもなく立体的な空間である。目で見ることもできないし、手で触ることもできないが、感覚としては、確実に「ある」としか言えない。

 この丹田に意識がおさまれば、ポカポカとした、あたたかで心地よい感覚が、腹を中心に生じてくる。この心地よさに心と身体をゆったりと委ねてしまうようにして、しばらく、丹田で呼吸をしてみよう(31)

 丹田で呼吸する感覚がわかりづらい方は、腹のあたりに自分の「本当の顔」があり(31,32)、その「本当の顔」についている鼻で呼吸をしているイメージを持つと少し、やりやすくなるかもしれない(31)

丹田の意識を広げて意識する自分を観察する

 丹田に意識をおさめたまま、ゆったりとした呼吸を繰り返していると、腹部のポカポカとした感覚が、少しずつやわらかく、全身に広がっていく(31,33)。最終的には、肉体を超えて、どこまでも広がっていく(31)

 自分の内側に「如来像」のような「どっしり感」が生まれてくる。この「どっしり感」こそが、「さとり」の体感、一つ目のポイントである。「さとり」の体感、二つ目のポイントは「すべてを、ただ、眺める目」である(32)。自分の「内側」に、どのような思考や感情や感覚が湧き起こったとしても、自分の「外側」にどのような出来事が起こっていても、腹部にある自分の「本当の顔」についている「透明な目」で、世界のすべてを、ただ、眺めてみてほしい。大空に浮かぶ雲のかたちが刻一刻と変化していく様子を眺めるような気分で、すべてをただ、ゆったりと眺めてほしい(32,33)

 そして、この段階まで来ると「自分の内側」とか「自分の外側」との言葉が実はしっくりとこなくなってくる。「丹田」と、「自分(という意識)」と「世界(あるいは宇宙)」が、完全に「ひとつ」のものとして存在していることが、理屈を超えて理解されているはずだからだ(33)

 最初は、自分の身体の中に丹田があると感じていても(34)、実際には自分の中に丹田があるのではなく、丹田の中に、自分を含めた世界のすべてが、すっぽりとおさまっていて「ただ、ある」という感覚が、生じているはずだ(33,34)。言葉にすると非常にナンセンスに聞こえるが、頭だけで理解しようとせずに、丹田を中心に身体まるごとでただ、感じてみれば、文字通り、「腑に落ちる」感覚があるはずだ(33)

 この「世界」という言葉は、そのまま「宇宙」という言葉に置き換えても構わない。大きな丹田の中に宇宙全体が、すっぽりとおさまっていて、丹田の外には宇宙はない。そんな感覚を味わいながら、引き続き、ゆったりとした呼吸を繰り返してみてほしい。

 丹田内の大きな宇宙の中では、瞬間ごとに、さまざまな事象があらわれているが、この大きな宇宙の中では、そのすべてが、完全にゆるされて、存在している。その事実に、心と身体をゆったりとゆだね、ただ、見て、聞き、嗅ぎ、味わい、感じ、すべてと、ただ、ともにある……。そんな時間を、過ごしてみてほしい(34)

 大きな「丹田」という名の「宇宙」の中に、様々な光、色、カタチ、音、匂い、味、思考、感情、体感が、瞬間ごとにあらわれては、瞬間ごとに消えていく。それらすべては、まったく別々のものとして「いまここ」にあらわれ、まったく別々のものとして「いまここ」に消えていく。すべてが、ばらばらだが、その「ばらばら」は、完全・完璧な調和をもった「ばらばら」だ。果てしなく巨大なたった「ひとつ」の丹田の中で、無数の異なったものたちが、ただただ瞬間ごとに「ばらばら」にあらわれては、瞬間ごとに「ばらばら」に消えていっている。これこそが、「いのち」そのものの感覚だ。つまりは「さとり」の感覚だ。この感覚を、どうか、忘れずにいてほしい。日常のありとあらゆる場面で、このワークを、ぜひ、意識的に繰り返してみてほしい。きっと、世界の見え方が変わっていく(35)

さとりとは所有から自由になる感覚である

 「さとり」の世界は、遠く離れた桃源郷ではない。本当は、いまこの瞬間も、間違いなく「さとり」を生きている。これまで、「さとり」を体感するワークを説明するときに「丹田」という表記を用いてきた。丹田が身体の中にあるとの意識を持っているときはこの表記は、まったく問題にはならない。しかし、丹田の範囲を広げていき、最終的には、丹田の意識と、宇宙そのものの意識を「ひとつ」のものとして感じていくところまで持ってゆき、普段自分が自分だと思っているものを含めた世界のすべてが、宇宙のすべてが、すっぽりと収まってしまう段階まで来ると、一般的に言う「丹田」という言葉の定義からは、おそらく、大きく逸脱してくる。そこで、あえて、「TANDEN」とのアルファベット表記を用いたい(36)

 もうすこし「深い」話をしてみよう。日々ワークを実践してくださっている方はすでにお気づきかと思うが、「さとり」を体感したところで、自我が消滅することはない。これを聞いてガッカリされた方もいるかもしれないが、残念ながら本当のことだ。

 自我とは、ふだん、自分が自分だと思っているものを構成するあれやこれやの総称だ。主には「思考」「感情」「体感」の3つが挙げられる。「さとった人」は、これらのすべてから完全に解放されて、「透明」な存在になると思われるかもしれないが、それは勘違いだ(37)。「さとり」を体感したところで、自我は消えない。思考も、感情も、体感も、これまで通り、ふつうに起こる。とはいえ、それらを、「自分の所有物」とは感じなくなる(37,38)

 普段、自分が自分だと思っているものと自分が外側の世界だと思っているものとの間にある「境界線」が溶けてなくなる。つまり、「内側」と「外側」の区別がなくなり、「わたしが世界」で、「世界がわたし」という感覚が生まれてくる(38,39)。そうなると、例えば、道路を走る車のタイヤの音や遠くの電車の音、近所の犬の鳴き声、鳥のさえずり、風にそよぐ木々や花々の姿や地面に落ちる影、雨の匂い陽の光のあたたかさとまったく同じように、怒り、悲しみ、よろこび、ネガティブな考えや、ポジティブな思い、心臓の音、呼吸のリズム、手のひらの汗や、背中のこわばりまでもが、いまここに、この世界に、「外側」も「内側」もなく、「自分」も「自分以外」もなく、ただひとつの大きないのちの中に、さまざまなものが、別々の姿・かたちをもって、ただ、あらわれては、ただ、消えていく……。そこには「良い」も「悪い」もなく、すべては、ただただそのように「ある」だけなのである。そう。思考も、感情も、体感も、すべてのものと同じように、いまここに、ただ、当たり前に「ある」だけだ。「私の思考」「私の感情」「私の体感」と呼べるものは、「なにひとつ」なく、すべては、大きないのちのあらわれとして、いまここに、ただ、あらわれては消えていく……。この世界には、「私のもの」など、なにひとつなかった……わたしは、ただの、なにものでもないいのち、そのものだ……。この実感こそが、「さとり」の感覚だ。「さとり」とは、つまり、「所有」という幻想から自由になる感覚のことなのだ(38)

意識を頭から腹に落とす

「意識を丹田におさめよ」と、何度も伝えきたが、「意識」という言葉よりも「こころを丹田におさめる」という表現の方がしっくりくる。では「こころ」とは何か(44)。「思考・感情・感覚の中心点」を指すものとして使っていきたい(44,45)。すべての思考や、感情や、感覚は、「こころ」を中心として生まれてくる。「こころ」自体に働きはない。それは、あくまで、思考・感情・感覚の「中心点」として、仮に存在している。

20200315.jpg そして、「こころ」は、ときに、その位置を変える。物理的な「頭」と「腹」の間を行ったり来たりする。「こころ」がどの位置にあるかによって、思考・感情・感覚の「質」は、まったく違ったものになってくる。「頭」は「考える」ため、「こころ」が「頭」寄りの位置にあるときは、「思考を考える」「感情を考える」「感覚を考える」といったことが起こる。「こころ」が「頭」寄りの位置にあるとき、なんだかソワソワとして、呼吸が浅くなり、動悸も激しくなり、見える世界も、暗く、狭くなってしまう。そこは、自分一人きりの、冷たく、孤独な世界だ(45)。「頭」=「考える」優位、過去・未来、分離、排除、自力、人間の世界だ。「こころ」が「頭」寄りの位置にあると、「私」は視野が狭くなり、世界との「つながり」を見失う。すると、「自力」が発動して、「なんとかして、自分が、自分の力で、自分の命を生きながらえさせなければならない」という思考と同時に緊張感が生まれる(46)

 「腹」は「感じる」ため、「こころ」が「腹」寄りの位置にあるときは、「思考を感じる」「感情を感じる」「感覚を感じる」といったことが可能になる。「考える」は不安定だが、「感じる」は安定している。「こころ」が「腹」寄りの位置にあるときは、非常にドッシリとして、呼吸も鼓動も安定して、見える世界も、明るく、広くなっていく。ここは、神、仏、宇宙……すべてとのつながりの中にある、とってもあたたかな世界だ(45)。「腹」=「感じる」優位、いま、つながり、受容、他力、神仏の世界だ(46)。一方、「こころ」が「腹」寄りの位置にあると、これとは逆で、視野が広がり、同時に、普段「私」が「私」だと思っているものの範囲もどこまでも大きく広がる。そして、最終的には「私」は幻想の存在だったと気づく。「自分」と「他者」とのつながりが、理屈を超えて体感されて、「自分は、自分の力で生きていたわけではなかった。自分は、自分以外のすべてに生かされていたのだ」という気づきがやってくる。

「私がいのちを生きている」のではなく、「いのちが、ただ、生きている」。自分(自力)を超えた、大きな大きな仏の力(他力)が、いまここに、ただ、はたらいている。この気づきは、果てしない安心感を運んでくる。そう、安心感は、「他力」とともにある(46)。だから、「腹」に「こころ」をおさめることが、なににおいても、いちばん大切なことになってくる。「こころ」の正位置は、「腹(丹田)」だ。「丹田」に「こころ」がおさまると宇宙そのもの、いのちそのものとしての「TANDEN」が見えてくる(45)

ほんとうの「いま」に気づく

 ワークを実践していると、自分の中の「時間」の概念も少しずつ変わってくる。ほんとうに、「いま」しかなく、「過去」や「未来」という概念が、あくまで「あたまの中」にしか存在しないものだったのだと驚きをともなった気づきがやってくる。そんな変化に戸惑いを感じるかもしれないが、それは「順調」なしるしだ。丹田に意識をおさめた状態で、日常生活を送っていくと、ごく自然に「腹が本体、頭は補助」という感覚が生じてくる。同時に、頭で考える気持ちよさではなく、腹で感じる心地よさを羅針盤に歩んでいく、そんなクセが身についてくる(42)

 この腹で感じる心地よさは、「いま」にしか存在しない(42)。「過去」や「未来」の心地よさは頭で考え、想像することはできても、それを実際に腹で感じることは、決してできない(42,43)。体感をともなわないアイデアは、あくまでアイデアにすぎず、そこに実体はない。「過去」や「未来」は、それがどんなにリアルなものに思えても、いまここに、その姿をあらわすことはできない(42)。ここには、「いま」しかないからだ(42,43)

 言葉にすれば、あまりにも「あたりまえ」な話だが、「過去」や「未来」という名の幻想を、あたかも実在のものと考えて、後悔や不安にのっとられてしまっているが(42)、「過去」も「未来」も空想の産物。そこに実体はない(43)

 そこで、過去の後悔にのみ込まれている自分に気づいたら、その瞬間に「私は、いま、過去の後悔に、のみ込まれている!」と、声に出して言う。未来の不安に怯えている自分に気づいたときも、その瞬間に「私は、いま、未来の不安に怯えている!」と、声に出して言う。「いま」という二文字に力点を置いて宣言することがポイントだ。さすれば、あっという間に「いま」に戻ってこられる。過去の後悔にのみ込まれていても、未来の不安に怯えていても、それが起こっているのは「いま」でしかない。私たちは、どうあっても、「いま」を生きることしかできない。「いま」からはみ出すことはできない。それに気づけば、その瞬間から気持ちが落ち着いてきて、呼吸も深くなり、見える世界が明るくなっていく(43)

仏と神は神社仏閣にではなく丹田にあり

 「さとり」はあたまで「理解」するものではなく、心と身体のまるごとで「体感」するものだ。しかし、「わたしが世界」で、「世界がわたし」だからと言って、肉体の感覚が完全に消失してしまうということは、決して起こらない。なぜならば、「わたしが世界」で「世界がわたし」という「さとり」の世界観、宇宙観は、身体の中にある「丹田」によって感じられるものだからだ。

 私たちは「丹田」を通して、世界大、宇宙大にまで広がった「わたし」という意識、世界そのもの、宇宙そのものとしての「TANDEN」の意識、つまりは「仏」の意識を味わっている。逆に言えば、肉体の中の「丹田」に意識をおさめることができれば、肉体を超えた「TANDEN」の世界は、ごくごく自然にひらけてくる(39)

 小出は、極楽、浄土、天国は、「腹の中にある」と主張する。仏や神は丹田にいると述べる。丹田を通じて、宇宙そのものとしての「TANDEN」、「本当のいのち」の姿、そのあり方を知る。これこそが、仏、神の正体だと確信する。そこで、仏さまや神さまに「会いたい」のならば、お寺や神社へ行くより先に、丹田に意識をおさめて欲しい(40)。TANDEN(丹田)は、BUTSUDEN(仏殿)であり、SHINDEN(神殿)なのだ(40,41)

 自分の身体の中にある「丹田」に意識をおさめると同時に、宇宙そのものとしての「TANDEN」を感じられる。「TANDEN」を感じると無条件で大きな安心感に包まれる。その安心感は「私たちは、いつだって大きな宇宙の中に生かされている」という実感とともに湧き起こってくる。ここで言う「宇宙」という言葉は、そのまま「仏」という言葉に置き換えられる。つまり、私たちは、仏さまのおなかの中で、いつでも絶対的に守られた状態で存在している。こんな安心感はほかにない。小出は「ただただ、ありがたいなあ、と思う」と結んでいる(41)

【画像】
小出遥子氏の画像はこのサイトより
頭と腹のイメージ図は文献45より

【引用文献】
(31) 2019年2月6日:小出遥子「連載31回目「丹田」に意識をおさめよう!(その4)」小出遥子のさとり探究記
(32) 2019年2月13日:小出遥子「連載32回目 すべてを、ただ、眺めよう!(その1)」小出遥子のさとり探究記
(33) 2019年2月20日:小出遥子「連載33回目 すべてを、ただ、眺めよう!(その2)」小出遥子のさとり探究記
(34) 2019年2月27日:小出遥子「連載34回目 すべてを、ただ、眺めよう!(その3)」小出遥子のさとり探究記
(35) 2019年3月6日:小出遥子「連載35回目 すべてを、ただ、眺めよう!(その4)」小出遥子のさとり探究記
(36) 2019年3月13日:小出遥子「連載36回目 「丹田」から「TANDEN」へ」小出遥子のさとり探究記
(37) 2019年3月13日:小出遥子「連載37回目 さとったところで自我は消えない!(その1)」小出遥子のさとり探究記
(38) 2019年3月27日:小出遥子「連載38回目 さとったところで自我は消えない!(その2)」小出遥子のさとり探究記
(39) 2019年4月3日:小出遥子「連載39回目 「肉体」を通して「宇宙」を知る」小出遥子のさとり探究記
(40) 2019年4月10日:小出遥子「連載40回目 TANDEN(丹田)は、BUTSUDEN(仏殿)であり、SHINDEN(神殿)です」小出遥子のさとり探究記
(41) 2019年4月17日:小出遥子「連載41回目 仏の「胎内」に生かされている」小出遥子のさとり探究記
(42) 2019年4月24日:小出遥子「連載42回目 ここには「いま」しか存在しない(その1)」小出遥子のさとり探究記
(43) 2019年4月17日:小出遥子「連載43回目 ここには「いま」しか存在しない(その2)」小出遥子のさとり探究記
(44) 2019年5月8日:小出遥子「連載44回目 「こころ」の新定義(その1)」小出遥子のさとり探究記
(45) 2019年5月8日:小出遥子「連載45回目 「こころ」の新定義(その2)」小出遥子のさとり探究記
(46) 2019年5月8日:小出遥子「連載46回目 体感から「自力」「他力」を考える」小出遥子のさとり探究記


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2019年07月11日

坐禅断食会と野口法蔵師の法話

観音の二つの意味
hozo-noguchi.jpg 観音については二つの意味がある。梵名アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)は、「観音菩薩」と「観自在菩薩」の二つの訳語がある。「観音」というときには、衆生の声を聞き、その求めに応じて救いの手を差し伸べる慈悲深い菩薩の「大悲」が強調され、「観自在」というときには「智慧」を強調してこのように訳出したといわれている。 

 さて、バラモンが支配していた中で、新しい考え方を持った人物、サッキャー、ニガンタナータプッタ、ゴータマシッタールダ、マハーヴィーラ等が6人がでた。うち、残ったのはゴータマシッタールダの仏教徒とマハーヴィーラのジャイナ教の二つだけである。

ブッダの価値はカースト制度を否定したことにある

 ジャイナ教は断食の祖である。ジャイナ教では菜食だけでなく食べないことを普通の信者がやっている。ジャイナ教は信用があり金持ちである。宝石商等をやっている。

 一方、仏教が消えてしまったのは、お坊さんが贅沢になったからである。像に乗って歩いたり、金持ちや王様だけしか相手にしなくなった。こうした中から、バラモン教の中からシャンカラがでて、ヒンドゥ教ということでバラモンを復興させる。私は、宗教が堕落して来たらそれが一掃されるのもいいことだと思っている。

 とはいえ、カースト制度が強い中で、最初に「その価値観が違う」と言ったのはブッタである。タゴール大学では毎年歌劇がなされているのだが、それは、ブッダが「人間の価値はカーストでは決まらない」と言うものである。

 あるカーストが低い貧しい女性が水をもらおうとしてももらえない。そこに、ブッダが通りかかる。高貴な人だということで水をもらえる。そこで、「彼女と私とはどこが違う」とブッダが話す。満場の拍手がおこる。そんなストーリーを飽きもせずに毎年やっている。

 ブッダといえども完璧ではない。誰かを犠牲にしている。大乗仏教はブッダを美化して、言いたくないため、「きのこ」に変えたが、実際にはブッタは肉を食べ、それが当たって死んだと言われている。

公案は何かのきっかけで解ける

 さて、ブッダは苦しんでいた。このため、6年の苦行の末に苦しみから離脱する方法を発見した。なかなかその方法が見つからなかったのだが、倒れたところに女性がくれた、牛乳で炊いたおかゆを口にすることでひらめいた。何かの起点で発想の転換が起こることがある。

 例えば、臨済宗は公案がある。10年間のうち1700もの公案をこなした人が老師となって僧堂を引き継いでいく。公安には答えがない。答えがないので間違いもないが、それを通らないといけない。毎日、考え続け1年間も座禅しても公安が解けずに病気になってしまうこともある。

 ある人が、夜中まで座禅をしていたがどうしても解けない。そこで、僧堂を抜け出して喫茶店に行った。本当はいけないのだが、そこでモーツアルトを聴いていたら公案がわかって、老師になれた。

聴覚だけが死に瀕すると敏感になる

 修行をハードにしていくと人は耳だけは敏感になる。人が死ぬ時もそうである。生命が危険になると聴覚が発達するらしい。「千日行」の最後の9日は、不眠で食事も取らず、周りの人たちがそれを応援するためお経をあげて線香をつけているのだが、皆が唱えているお経の声は聞こえず、ただ線香の灰が落ちる音だけが聞こえるという。誰もそう言うので、皆さん、死にかけていくとそうなるようである。

 他者から与えられるストレスは良くない。けれども、自分で自分を追い込んでいくことはどうも悟りには必要と思われる。インドでは苦行は良いことでやればやるほど良いことだと思われている。

仏教の価値は多様性への寛容性にあり

 ブッダは苦しみをなくす方法を4つ考えて説かれた。怒らない。心を穏やかにするための瞑想、座禅。そして、研ぎ澄まされた直感力を高めることである。 ただし、やり方は場所と人によって違って良いとした。普通は、教義は維持しなければいけないのだが仏教では柔軟にした。そのおかげでインドでは失われたが、広く広まった。ポイントは多様性である。

佐々井老師と松本であった

 ここで違う話をしてみたい。先月、インドから来たお坊さん、佐々井秀嶺(1935年〜)師と松本で会った。

Bhimrao-Ambedkar.jpg マハトマ・ガンディは革命を起こし、カーストをなんとかしたいと思い、神の子、「ハリジャン」との名前をつけたが、今度は、「ハリジャン」と名付けることで新たな差別が始まった。そこで、このハリジャンから法務大臣を任命することをネールが発想した。こうして任命されたのが、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar、1891〜1956年)である。彼は、仏教を前面に出すことでカーストを打破することとしていた。

 このアンベードガルの活動を継承したのが、佐々井秀麗さんである。この方の師匠で八木上人というすごい人がいて、世界中のヒッピーが弟子になっていく。

 佐々井さんと同じく、この人の弟子の一人成松さんという方がデリーにいるが、この人のお経を聴いて感動した。他の人もそのお経を聴いただけで動けなくなる。それだけすごい声であった。こんな声を聞いたのは初めてである。

shurei-sasakiS.jpg さて、佐々井老師の尽力によって今インドでは仏教徒が100万人。お坊さんも1万人くらいいる。そして、日本の青年も佐々井老師のところに行くようになり、日本人のお坊さんも500人いる。今83歳だが、30年前に本に私がそれを書いて、「自分と師匠のことが書いてある」と覚えてられていた。そこで、松本であった。

 久々に50年も前の頃の日本人を見たような気がした。頑固で、怒っており、声がでかい。戦う仏教と言っているが、実際にインドでは戦わなければいけない。懐かしいと思った。杖をついて松本の街を歩かれ、会っておかないと後がないと思ったので、普通の喫茶店で会ったのだが大きな声であった。

 さて、この人の最初の頃のお弟子さんで東大法学部出の草薙龍瞬(1969年〜)さんという方がいる。3年前に鈴木秀子さんと対談して本になっている。

 佐々井さんは長野県内のいくつかのお寺で法住をやったのだが、お経が叫んでいるようであった。俺の声は世界で一番でかい。インドは、そうしないと通用しない世界なのである。

断食の原点はジャイナ教

 さて、私の断食はインド発想で日本の発想ではない。だから、宿便出しが早い。日本でも断食の歴史が長いが、なかなか宿便出しがなかった。そこで、今でも使っているのがジャイナ教である。それを見て来て、やりやすい形にした。私が編んだのだが、もともと存在していたやり方である。

 まず、変えようとしたのがお腹。つまり、食べ物からスタートする。お腹の菌を増やすためには動物質よりも菜食が良い。発酵することで善玉菌ができてくる。その菌があるためにはいい土がないといけない。そして、吉田先生がタネとして本を書いているけれども、タネも問題になってくる。

 そこの場所に住んでいるのと同じ菌が腸内にいる。そして、赤ん坊はお母さんの産道をとおっ他ときに受けた菌を一生持ち続けている。産道を通るときまでは菌がいないからである。そこで、帝王切開は問題がある。今、膣の粘膜にいる菌を植え付けることもされている。最初の菌が大事だということである。

 また、大便も入れるやり方もあるが、母乳も大事である。最近は、ミルクでも菌が入ってこない。吉田先生の本はいい本で、どれだけ腸内細菌が影響があるのかが詳しく書いてある。また、ここにチラシがあるけれども腸内フローラ、これを改善しようという動きがある。

脳神経科学からも腸と脳神経の関係が着目されはじめた

 さて、最近6月に「第115回日本精神神経学会学術総会」が新潟で開かれた。うち、シンポジウム87は「腸内細菌叢-腸管-脳軸:発達早期における精神活動と行動への影響」である。つまり、そこで、発表があったのが腸内細菌と精神疾患についてである。老年期のアルツハイマー。腸内菌の影響がどれだけあるか。これを研究してきたのは、東海大学医学部の三上克央先生である。もともと医学部出身でなはなく、社会人の頃からそういう発想をもっていて断食会にも来ていた。それから医学部に入ったのである。

 要するに、お腹を変えるとどこまで可能性があるのかが研究されている。そして、絶食は腸を空にして菌を入れ替えるというスキルである。

 菌にも、いい菌もあれば悪い菌もある。悪玉菌を出して善玉菌を育てるのが理想だが、それは、外からはできない。一方、動物にはそれができる能力があるのではないか。そのことをアメリカのアレルギー専門の研究機関にいた藤井さんが教えてくれた。そして、断食の効率はかなり良いという。

禅宗は断食を入れていないという決定的な弱点がある

 ポイントは神経にある。腸の能力を高めるためには神経が働くことが必要である。そして、よく考えればジャイナ教は座禅を入れていた。脳をスッキリさせていた。そこで、これを入れていたのだが断食であった。けれども、日本の座禅には断食が入っていない。

 禅宗は座禅をやっているが1日食事は4回。午前、午後、夕方、夜。それも噛まないで早く飲み込む。少ない食事を多く噛んで食べれば食べ物も変わる。そう主張されていた女医さんもいた。けれども、禅宗はそれをしていない。それが証拠にあまり覚醒する人がいないし病気になっている。

 座禅の工夫として食事のコントロール。食べる量は減らすべきである。そして、発酵食をするために菜食主義は取っているものの、調理やり方が問題である。生ではまずいという意見もあるが、美味しいとかではなく、体が受けいれられるかどうかが大事である。

 つまるところ、土を作るところにまでゆきつく。というわけで、私は座禅を断食に入れ始めた。入れてみると宿便が出る効率があがった。

 瞑想断食はあったのだが、瞑想を入れてもそう効果的でなかった。リラックス状態であると副交感神経の活動が高まる。けれども、実際に神経はもっと複雑にかみ合っている。そんな単純なものではないのである。

脳の思考活動の暴走を止めるのが祈り

 脳は勝手に考え始めるし暴走してしまう。それをコントロールしようとして出て来たのが祈りではないか。暴走する脳を塗りつぶしてしまう、それが宗教ではないか。

 お祈りをして入れば健康になれるという実験もある。さらに、自分のためにだけ祈るのでは弱いことから、人のためにも祈る。そして、お祈りをする人だけでなく、祈られた人にも効果がないのかというとそうではない。それも、プラーシボ効果でなく、自分が祈られていることを教えなくても統計的に効果があることがわかっている。つまり、何か伝わる部分がある。私も体験的に経験していて祈ることが大事だと思っている。

 さて、この祈りに関して、今私に関心があるのが鈴木秀子シスターである。仏教では祈りが人に伝わらないという弱さがある。そこで、祈りを持つ人の心の状態を鈴木さんから習いたいと思って今くっついている。来月、ここで最後に聞きたいことを聞いた上でそれをまとめ上げようと思っている。

 私はいろんな人にあってきたけれども、皆ひょうきんである。それを態度で示すことにも感心した。昔のお坊さんのパフォーマンスもそうであったと思っている。

 さて、座禅に話を戻すと呼吸の長さが長くなると体温があがる。それが自分にとっていいことをやっている目安である。女性の0.01度まで測定できる体温計を使ってみるとよい。また、アルコールは気分が良いようだが神経系にストレスがかかって体温は下がる。眠りも浅い。日本の仏教はその伝統がなくなったが、悟ろうとする人はお酒を飲まない。それはブッダが決めた。酒を飲んでも良いことになったのは日本だけである。

ストレスとしての座禅を加えることで宿便を出すことに成功

 さて、自分に科すストレスはストレッチでもいいし、歩いてもいい。ストレスがないと内臓が働かない。人間はストレスがないと生きていけない。生命を維持しない。自分で好んでストレスをかけるのが修行である。また、座禅のように動かないのもストレスである。人から科せられるとダメだけれども、自分でストレスをかけるのはいい。腸が動いてくる。この二つを組み合わせて、48時間で絶食して、トータル300分の座禅をしたときに、宿便がでる。ただし、平均値だが3分の1だけしかかわらない。

 けれども、これが大事で選挙の結果が変わる。善玉、日和見、悪玉のバランスで腸内政権側がどんどん良くなる。一回では変えられないし、腸の動きが悪いと善玉優位にはならない。

美味しいかどうかは腸が判断する

 極端な話で、がん治療として糖分が悪いとして、ダイエットで糖分を一切食べない療法が出てきている。穀類を一切食べず、野菜とタンパク質、肉だけでガンを止める。実際にそういう療法があるが、これに対して、日本で言われて来たのは玄米菜食である。こちらは、まあまあの効果だが、がんの逆転は難しかった。

 さて、先ほどの発想は米国のものだが、その裏にはローフードがある。今回参加している、ローフードのいけやれいこさんのもそうであるが、生を食べ脂も入れない。ナッツを食べ、甘みの代わりに果物を取る。カロリーも低い。腸内でそれが発酵する。けれども、それが美味しいかどうか。それはお腹が判断する。動物は腸がおかしいと判断したものがまずくなる。例えば、馬が典型的で、以前に馬を飼っていたのだが毒草は食べない。けれども、人間は判断できない。

 さて、私の毎日だが、まず布団の上でストレッチをする。体を柔らかく維持しようとする。お経を40分唱え発声をする。それをやってから、次にやるのが水の滝に行く。皮膚刺激を受ける。毛穴を開け閉めして、それから五体投地を祈りをやっている。で、達成感があったし、「いいことがあった」として寝られていたのだが、鈴木先生に会ったら三人に感謝して助けなければ寝てはいけないと。ところが、感謝をするのは、身近な人ではない。家族とかではなく、断食会で会った人であったりする。私が気に留めたい人なのである。

 さて、呼吸があって来て、皆が一体感になる。この場だけでも幸せな空間になる。それを励みにやっている。

幸せを求めるのが人

 さて、辻信一先生と「何が幸せなのか」についての本を書いたのだが、幸せを求めて行くのが人である。でも、こういう人生を求めて歩いた人もいる。

Shiina.jpg 椎野能敬師という方でお金もなければ、パスポートもなく、裸足、服一枚、バケツ一個で、尊足山(ククタパダ、グルパ・ギリ)という史跡を発見された。仏教教団でブッダの後継とされ、ブッダの死後、初めての結集の座長を務めたのが、大迦葉 (ダイカショウ)である。実は、ブッダやジャイナ教のマハーヴィーラよりも有名人であった。当初、ブッダは有名人でなかった。大迦葉が弟子入りしたことで着目されたのである。さて大迦葉は、ある岩山のてっぺんに登ってそこで座禅をして死んだ。その岩山の場所がわからなかった。それを見つけたのである。そして、帰ってくる電車の中で死んだ。日本のお寺に遺品が届いた。瀬戸内寂照さんがこの方とインドであっている。

人間を止めて石になる

鶏足山.jpg さて、私はその後グルパ山にいった。すごい山で、雨が降って来て夜になってしまった。原稿にはしなかったのだが、椎野さんが頼りにした佐々井さんと会ってこれを思い出した。

 インドの雨は横にふる。石の祠があったのでそこで坐禅をしたところ、野生のベンガルトラが出てきた。よく見ると、そのトラにはおっぱいがあった。

 中国のお経では、虎が出て来たときに、お乳がよく出るようにと食べられようとしたお坊さんが、虎に食べられずに悟ったという話がある。

 そこで、私も、ここで死んでもいいかな、遺体がないかもしれないなと思いながら、いたところ襲われず助かったことがあった。そのまま朝まで座禅をして村に行って「虎が出た」と言ったら、夜に行くものではないと言われた。

 呼吸が荒く、動いていれば虎に噛まれたろう。そこで、石になろうと思った。石であれば、たとえ虎に噛まれても痛くない。座禅をしていて足が痛い時には、人間を止めて石になってみるのがよい。この後の坐禅はそのようにしてみてはいかがでしょう。

編集後記

 2009年7月7日(日)から9日(火)まで長野県松本市で開催された野口法蔵師の坐禅断食会に参加してきた。理由は糖尿病である。朝の空腹時血糖値が138mg/ml以上だと糖尿病とされるのだが、これがまだ134mg/mlとか高くなってきたのだ。効果は抜群であった。断食中には75mg/mlとか100mg/mlを切り、ケトン体の測定値も8日の就寝前には4.1mmol/ℓ(4100μmol/ℓ)まであがった。ちなみに、糖質を摂取している場合の血液中の総ケトン体の基準値は26〜122μmol/ℓとされている。糖質がまったく摂取されないと肝臓はブドウ糖に変わるエネルギー源として脂肪からケトン体を作り出すのだが、500〜1000μmol/ℓとなれば身体がケトン体を使い始めた状態といえる。そして、9日の「明けの食事」の後には見事に宿便が出た。

 さて、今回掲載したのは、8日(月)の夜に法蔵師の語られた法話のまとめである。いくつかわからない人名があったところを確認したところ、11日にはすぐさま法蔵師から訂正文が届いた。なお、補足ながら文中で法蔵師が良書として言及されている「吉田先生」の本とは、吉田太郎氏の著作『タネと内臓』(2018) 築地書館である。

 さて、今回の断食会ではまた新たな出会いや情報が得られた。今回は消火器外科医である長岡美紀医師も参加されており、7月13日(土)には、同医師も講演される(社)国際和合医療学会の主催による「女医によるフローラ祭り!、なでしこフォーラム2019」の案内をいただいた。いよいよ腸内フローラに医師も着目する時代になってきたのである。また、8月3日(土)には、松本市芸術館で野口法蔵師と鈴木秀子シスターによる「修行と祈り」という講演会も開催される。

 法話でも話されたとおり、法蔵師はキリスト教の祈りにも着目されている。そして、もともと私がこのブログを立ち上げるきっかけとなったのは、2015年12月30日付のブログ『99%と1%のはじまりB』でも書いた通り、鈴木シスターの著作『あなたは生まれたときから完璧な存在なのです』(2014)文春新書との出会いであった。まだ、鈴木シスターにはお目にかかったことがないのだが、是非、講演会には行ってみたいと思っている。

【画像】
ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル大臣の画像はこのサイトより
佐々井秀嶺老師の画像はこのサイトより
鈴木秀子シスターの画像はこのサイトより
椎野能敬師の画像はこのサイトより
グルパ山の画像はこのサイトより
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2019年06月30日

映画「美しき緑の星」と「地球が静止する日」の謎

映画「地球が静止する日」をいま見る必要性

『地球の静止する日』という映画をご存知だろうか(1)。この映画には現代を生きるうえで学ぶべき生々しいメッセージがたくさん隠されている(8)。例えば、この映画には「宇宙人(Space People)」の情報がかなり散りばめられている(6)。順番に見ていこう。

 第一は、科学技術である(8)。この映画が制作されたのは1951年だが、1951年と言えば、日本では洗濯機も冷蔵庫もなく、テレビすら放送されていない時である。ペンを用いたタッチパネルが普及するのは1990年代になってからである。けれども、この映画には「タッチパネル」どころか手をかざすだけで反応するパネル群がすでに描かれている(6)

The Day The Earth Stood Still.jpg 第二に、まったく隙間がない金属によって加工されたUFOが描かれている。ナノテクをベースにしたアルミニウムは隙間がないが、当時の科学知識では思い付きもされない代物である。映画は、後述するロズウェルで回収された宇宙船の技術がリークされているのではないだろうか(6)

 第三は、映画の内容である。映画では、ワシントンD.C.に銀色の円盤が着陸し、人間の姿をした宇宙人クラトゥが出現し、核兵器の危険性と他惑星に対する影響を警告するというメッセージとなっている(6)。すなわち、高い知性と善意的で友好的な宇宙人と人類とがコンタクトするという先駆的なSF映画だった(7)

謎に包まれたままのアポロ計画とケネディ暗殺の真実

 さらに、『地球の静止する日』以降、地球は宇宙に向けて大きく前進していく黄金期へと突入していく。1961年には『アポロ計画』が始動し、ケネディ大統領は「1960年代中に月にいく」と言い出す(1,3)。1966年 2月26日にはアポロ1号が発射され(5)、この断言からわずか8年後の1969年7月20日には、アポロ11号の月面着陸が成功する(1,5)

『50年前』といえば、写真がまだ白黒だった時代である。もしかしたら、何かしらのバックアップがあったのかもしれないではないか(1)

 そして、キューバ危機を回避し、部分的核実験禁止条約を締結し、軍事産業を宇宙開発事業に向けようとしたジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺される(6)。そして、このケネディ暗殺日から、宇宙に関しては、誰かに時計の針を止められてしまったかのように一変する(1)。1972年までの12年間で合計17回打ち上げたアポロ計画で、計6回の月への到達を達成するが、アポロ17号を最後に突然に終わりを告げる(3,5)。そればかりでなく、『アポロ計画陰謀論』まで取りだ足され、なんだか有耶無耶のままにいつの間にか人々の記憶から薄らいでいった(1)。そして、ケネディ暗殺以降、エイリアン映画の流行が加速化していく(8)

おどろおどろしい宇宙人のイメージの普及と映画のリメイク

 グレイ.jpgすなわち、アポロ計画以前の映画に登場する宇宙人は、基本的には私たちと変わらない『人間の姿』で描かれていた(3,5)。けれども、そのスタイルは1970年代年代にガラっと変わっていく。様々な『エイリアン映画』が制作され、流行していくが、そこに登場する宇宙人の姿は、グレイや爬虫類のようにおどろおどろしい姿で、人間とはかけ離れたイメージのものが多くなる(1,3,5)。ほとんどの宇宙人が人類とは敵対するモンスターであって「グロテスクなエイリアン」が地球を侵略するという内容に変化する(6,7)

 さらに、数多くある宇宙人映画のうち「地球の静止する日」だけが2008年にはリメイクされる(1,6,7)。その内容はリメイク版というよりは全く別のストーリーへと変えられている(8)

 第一に、宇宙人は地球人とは変わらない人間であることが否定され(8)、クラトゥが人間ではない生命体として描かれている(6,8)。地球は奇跡の星であって、地球のような星は宇宙でも珍しく一握りだとの余計な要素まで盛り込まれている(8)

 第二に、核を警告しに来たという宇宙人のメッセージが自然環境問題へとすり替えられた(6,8)

 第三に、当時のSPが地球の人類に向けたメッセージなど少しも描かれなくなる。旧作でのクラトゥは、高い科学力を持ち地球人の無知に半ば呆れながらも、地球人に対して深い理解を示している。けれども、新作でのクラトゥの目的は「人類を救うこと」から「地球を救うこと」へと変わっている。地球のような惑星は宇宙でも一握りなのだが、このまま人類を生かしておくと地球が死んでしまう。人類という一種族のために地球を死なせる訳にはいかない。人類を淘汰することで、地球や人間以外の生き物を人類から救うために訪れたのである。ここには何かしらの意図が見え隠れしている(7)

宇宙人に関する情報はかなり操作されている

 世の中の貧乏人や中流層。物事を多角的に解析して考察しようとはせず思考停止したB層。利権のおこぼれをすすっているだけのエリートや経営者は、『宇宙』というワードだけでたちまちオカルト扱いをしたり、自分とは無関係の未来の話だと決めつけてしまう。けれども、こうした空気感こそが情報操作によって意図的に作られたものではないだろうか(1)

 実は、宇宙に関して知らされる情報はついても、情報操作のために意図的に流布されたと思われるデマ情報がかなり紛れてしまっている。太陽系には人間が住める惑星がない等、あらゆる科学的なデータや研究所の論文も情報操作がなされ、明らかに何かが隠蔽されている(1)

 つまり、『地球の静止する日』のような人型宇宙人を描く作品がエイリアン映画へと塗り替えられ(8)、宇宙人といえば「グロテスクなエイリアン」という不気味な姿をイメージするようになったのは、巧みな話のすり替えとイメージ操作戦略であった(1,3,5)。ちなみに、レプティリアンもドラコニアもグレイも、「亜空間知能」が持つ一つの偶像テンプレートであって、それを逆手に取った軍産複合体をはじめとする支配階級が意図的な情報操作として流していると解釈するのが妥当である(1)

1951年映画『地球の静止する日』は真実を伝えるために制作された

 真実はこうである。実は「地球の静止する日」は、第二次大戦中に米軍基地で実際に起きた事件をもとに描かれたもので、重要な宇宙問題の真相に触れた大衆へのメッセージが込められていた(1)

 制作した映画会社の主席プロデューサーはその直前までCIAの心理作戦本部の重要人物であり大統領の顧問にもなるほどの米国で最も有力な隠密の戦略家の一人であった。さらに、興味深いことに、この人物はこの映画制作に関して、企画室のスタッフや台本作家に「そう遠くない未来に起こりうるものとして、このストーリーを聴衆に強いるようにしなければならない」と語っていた。「この映画はきわめて現実的な映像とすべきである。」と強調したメモ(1950年8月10日付)も残されている。

 したがって、当時は、宇宙からの訪問を公にしなければならないほどの現実的状況があり、CIAや米国自体がそれを覚悟していたことがわかる。
例えば、映画『地球が静止する日』のシーンと同様のUFO事件がアラスカの空軍基地で、日本がハワイに真珠湾攻撃をした頃に発生し、ロサンゼルスでは巨大な宇宙船が現れ、陸軍が1400発の高射砲を打ち上げるという事件が起きている。これは、核分裂連鎖実験にアメリカが成功した年である。また映画が封切られた1952年には、首都ワシントン上空にUFOの大編隊が飛び回わり、その年の末にアダムスキーによる宇宙人とのコンタクトが始まる(1)

核問題だけが彼らが干渉する事項である

 1950〜1952年は、各国が核の大量破壊兵器を使用していくことに対し宇宙から最大のプレッシャーがかけられた時期でもあった(1)。基本的には地球に対して『不干渉のルール』を守っている彼らが唯一、干渉せざるを得なくなるデッドラインが『核』だからである(2)。実際UFOの乱舞などがあった場所は核開発があった場所に限られていた(6)

 最近の相次ぐ北朝鮮ミサイル発射実験の失敗報道の裏には、テレビでは絶対に報道されない宇宙人たちの地球への政治的介入の事実がある。キューバ危機の時にも同様の理由でSP介入がありその働きかけによって、地球は大戦争へと発展することなく一触即発の状況を脱している(2)

 3.11東北大震災の福島原発問題の時もSPがすぐさま除染活動を施していることも日本のため、地球のためというよりも、彼ら自身の都合でもある。実際、あれだけ騒がれた割に東北の放射能数値は異常なスピードで下がっている。こうした事実もテレビでは報道されないが実際に、関凛太朗の仲間が現地で測定して確かめている(2)

 それほど核爆弾の威力は凄まじい(2)。しかも、SPの移動手段であるスペースシップにとっても電車でいうところの線路に相当する『惑星の磁力線』が核によって破壊されてしまう恐れがある(2,3)。だからこそ彼らにも放っておけない領域の問題と捉えられている(2)。実際、地球がいまだに宇宙人たちの輪の中に入れずにいる理由のひとつが、ロズウェル事件で、彼らの航空機を墜落させてしまう原因にもなった『核問題』である(3)

ロズウェル事件の真実

 ロズウェル事件とは、1947年7月、アメリカのニューメキシコ州ロズウェル付近で起きた『世界で最も有名なUFO墜落事件』である。1995年には、改めてアメリカ空軍が、墜落現場付近を調べ(3)、結局のところ政府機関はこの事件を『気球の見まちがい』というなんとも拍子抜けのオチのまま処理された(3,6)。それだけに、アメリカ政府が、地球外生命体の存在を隠している陰謀説を叫ぶ人は後を絶たない(3)

 実際、『地球の静止する日』が公開されたのは「ロズウェル事件」の4年後である。当時は、冷戦時代で核開発があちらこちらで行われ、各国が対立していた。ロズウェルも水爆実験が行われていた場所である。UFOがそこで墜落したのだとすれば、その搭乗員は核開発に関する調査を行なっていたと推測できる(6)

 彼らの乗っていたスペースシップは地球の航空機とは根本的に飛行原理が違うものであった。それほど、彼らのテクノロジーは僕らと比べ物にならないほど進んだものであった(3)。真相を知っていた軍関係者は、ロズウェル事件や他のコンタクト事件で得られた情報を元に、大衆の反応を知るために映画を制作したと考えられる(6)

ケネディが伝えようとしたメッセージ

 ケネディが暗殺されたパレードに同乗していた元アリゾナ州知事に手渡していたスピーチ原稿の一部は以下のような内容となっている。

「1947年に我々の軍隊はニューメキシコの砂漠でどこからか飛来した謎の航空機の残骸を回収した。科学は航空機が地球から、そう遠くない月や地球内部、近隣惑星を経由して来訪しているとすぐに確定した。

 その時から我々政府はその宇宙船の建造者と連絡を取った。このニュースは幻想的に恐ろしく聞こえるかもしれないが、この事に決して不当な恐れやシリアスな態度で応じないようお願いする。

私は大統領としてこれらが、私達に危害を加えない存在であることを確約する。むしろ彼らはこの星の専制政治、貧困、病気、戦争といった我が国と全人類共通の敵に打ち勝つことを援助してくれている兄弟達だと約束する。私達は彼らが敵ではなく友人であることを確認した。私達は彼らと共によりよい文明を構築することができる(1963年11月22日 ジョン・F・ケネディ 享年46歳)(3)

「そう遠くない月」とケネディが述べたのは、彼らの航空機にトイレがなかったためである。この文章からもわかるように、ロズウェル事件で飛来した謎の航空機の残骸を回収した米政府は“彼ら”が同じ人体を持った人間SP(Space People)であることを認めていた(3)

 つまり、軍の幹部、世界の首脳等のトップ層は、地球以外の惑星には我々よりも高度なテクノロジーを持つ人類がいることを知っている。ケネディもその1人だった。月には人類がいる。ケネディはその事実を公開しようとしていた。そして 月の民との交流をテレビを通し上映し、地球の民を宇宙市民へと昇華させる壮大な宇宙外交経済構想を持っていた(5)。ケネディは、この宇宙的事実を、勇気を持って受け入れようとし、ジョージ・アダムスキー(George Adamski, 1891〜1965年)を仲介人として、当時のローマ法王とともに、人類の永遠の夢であった『世界平和』に向かって突き進んだ。このため、両者とも暗殺された(1,3,4)。その真相はいまだ闇の中なのである(1)。ジョージ・アダムスキーは「オカルト気違いウソつき」と徹底的に吊るしあげられ、著作は本国米国においては、すべて絶版となり、消し去られている。すべて焚書されるほど徹底的に叩かれているが、これは不自然な部分が多すぎる。ケネディの裏で、スペースピープルとともに政策としての宇宙進出に関与し、アポロ計画を裏で支援していたのはアダムスキーであった(4)

実は宇宙にはすでに平和な宇宙人がいる

 実際のところ、漫画に出てくるようなタコ足の宇宙人は存在しない。巷では、多くの宇宙人コンタクティ達の噂話が出回っているが、それらも多角的に解析していくと、ほとんどのものがデマ、もしくは一種の催眠に近い妄想である可能性が高い(1)

La-belle-verte.jpg 同じ宇宙人映画でも、発禁にまで追い込まれ問題となっている、いわくつきの映画『美しき緑の星』では、そんな姿では描かれていない。そう、同じ人間の姿をしている。人間のこの人体の形そのものが、黄金比による設計なのである。もちろん、肌や髪色など、多少の違いはあるが、ベースは変わらない(1)

 実は、地球外には私達と同じ姿をした人間が存在している。それも、はるか遠い銀河の話ではなく、太陽系のあらゆる惑星に存在している(1)。しかも、地球近隣惑星に住むスペースピープルは、地球とは比べものにならない高度なテクノロジーを持ち、すでに亜空間知能を克服し、平和な宇宙経済文明を築いている(1,2,3)

 彼らは地球を侵略しようなどとは考えていないし(1)、地球で起こる出来事にも干渉はしてこない(1,2)。無理に教えたり、力づくで間違いを修正しても意味がないことを過去に何度か干渉した歴史からもよく知っている(2)。むしろ、地球人類が亜空間知能を克服し、上下対立のループから抜け出ることを影ながら見守っている(1)

 月にも既に別の人類が住んでおり、かつ、我々よりも進化している。フリエネルギーも存在し、マネーも階級社会や戦争経済もない暮らしをしている。さらに、条件が整えば自分たちのテクノロジーを教え、交流したいと好意的に地球人を見守っている(5)。もちろん、地球人が核実験を続ける限り、彼らとの信頼を構築することはまだできない。こうした隠された太陽系の実態、宇宙史を知らなければ、不可解なロズウェル事件の真相にはたどり着けない(3)

既得権益者による封印〜月には宇宙人が住んでいる

 Adamski.jpgアダムスキーが「真の生命科学」として、口を酸っぱく説き続けていたことには、当時では知りえるはずもない生命の叡智がふんだんに折り込まれている。その幾つかは現代になりやっと証明されはじめているレベルで、科学者でもなく、世間的に見ればしがない庶民でしかなかった彼が、そこまでの科学情報を知っていたことには驚愕せざるをえない(4)

 つまり、高度な文明を築きながら、平和に暮らしている人間が近隣惑星にはいる(3)。地球の支配階級の人々ともその存在を知っているが、それを庶民には知らせたくない(1)

 彼らの存在が世に知られることで最も問題となるのは利権問題だからである(5)。現在の地球上に存在している食料問題、エネルギー問題、宗教問題等、あらゆる既得権益が根底から覆ってしまう(3)。とりわけ、一番リアルな問題は、マネーが必要がない世界になってしまうことである。

「もう月に行かせるわけにはいかない」

 地球上で数々の利権を握っている既得権益者たちがそう思ったとしてもおかしくはない(5)。地球経済のピラミッドを作り上げ、上位に君臨する者からすれば面白くない。そこで、この彼らからの干渉を拒み事実を封印した(3)。ケネディがアポロ計画によって実現しようとしていた新たな未来もそうなっては都合が悪い人たちによって闇に葬られた(1)

 ロズウェル事件の真相は決して明かされることはなく、本来なら、惑星間を移動できるほど高度なテクノロジーを有している宇宙船や彼らの科学技術に目を向け学ぶべきところを隠された。中途半端な偽造証拠写真を当時の関係者筋から巧みに流出させ意図的なエイリアン映画ブームによって、さらに煙にまいていった(3)。真実を隠すため、グレイのような宇宙人が捕らえられている偽写真やデマ情報も多く流された(1)。動き続けていた地球の針は止められ、混沌としたこの社会が生み出された(4)

投資家たちが執拗に火星にこだわるわけ

アポロ計画が中止された以降も、宇宙空間への人類の憧れや探究心は止むことがなく幾度となくロケットや探査機が飛ばされ続けている(1)。しかも、超富裕層エリート(支配階層)たちが最も関心があるテーマの一つが『宇宙』で、多額の投資を惜しまず、科学的な検証が続けられている(1,3)

 かのスティーブ・ジョブズを超えるとまで言わしめた現役バリバリ世界最高峰の起業家、イーロンマスクは2026年までには人類の火星移住計画を実現させると公言している。オランダのマーズワン計画でも2025年までの移住計画が打ち立てられて、実際に募集も始まっている。この片道切符を求めて、世界中から20万人の応募があり、1058人がその切符を手にしていると報道されて話題になったことは記憶に新しい。にわかには信じられないかもしれないが、惑星移住は、遠い未来の話ではない(5)。けれども、10億ドル以上の資産を持つお金持ちたちは宇宙に関心を持つのだろうか(3)

 なぜ、人類はそうまでして火星に行かなければならないのだろうか。なぜ、イーロンは、早急に火星移住をしなければ人類に不都合があると考えているのであろうか(1)

 さらに、イーロンは、人為的にその星を人間が住める環境にする「テラフォーミング」よりも、人間の身体を火星の環境にあわせて改造する「マージリアンフォーミング」の方をメインに推し進めている。そうまでしてまでも、地球から脱出しなければならない理由は、このまま地球に暮らしていくことが現実的に厳しくなる可能性が高いことがある(1)

 さらに、『地球の歴史』と『火星の歴史』の因果を辿っていくと、なぜこれほどまでに火星にこだわっている理由も明確に見えてくる。その根には『旧火星文明再生計画』という壮大なシナリオがある。グーグルをはじめとするトップ層が人工知能に注力していることもこれと関係している。実は、過去には、火星においても地球と同じように上下対立の時空を止められず、戦争経済の果てに核戦争によって表面が砂漠化してしまったことがある。この『旧火星文明再生計画』をベースに、地球の「戦争経済」は構築され、今も推進されている。

 これは、地球において繰り広げられてきた歴史的な事実から、社会学、考古学、世界情勢をはじめ量子論から宇宙論に至るまで、あらゆる観点から多角的に解析した最有力仮説なのである(1)

編集後記

 昨日、6月29日は、長野県を訪れた種蒔夫氏とともにシャンティクティ(Shanticthi)訪れた。サンスクリット語で「シャンティ」は「平和」、「クティ」は「家」を意味する。安曇野の池田町山麓の静かな森の中にあるアグロエコロジーの最先端の農園と言える。2019年6月13日付の地元経済補完計画Cでは元外資系コンサルタントの山下悠一(1978年〜)氏が、ポスト資本主義社会を目指す実験的コミュニティのライフスタイルを米国企業と提携してプラットフォーム化することで可視化していると述べたが、シャンティクティもこのリストに載っている。そして、在来種の自家採種にも取り組んでいるのだが、それは、小規模・家族農業ネットワーク・ジャパンの村上真平氏にバングラディッシュでインスパイアーされたことが契機となっている。

 一方、種蒔夫氏の方はもちろん、ペンネームなのだが、福岡正信翁にインスパイアされ、翁が開発された「ハッピーヒル」というタネを全国に人々に手渡すというユニークな活動をされている。タネが大切だという価値観では共通するのだが、当然のことながら、種蒔夫氏はシャンティクティを以前にも訪れたことがあったという。

「今、伊那北をでて新潟に向かっているのだが、会えませんか」

 いきなりの電話が鳴ったのが10時だった。今年1月26日に東京で開かれた「福岡正信さんと自然農法を愛する会」の2019年新年会で氏の講演を聞いただけの縁である。とはいえ、名刺を交換し長野に住んでいることを伝えていたので、わざわざ声をかけてくれたのだ。

 実は、28日は23時の閉店ギリギリまで飯田市内の喫茶店「このんこぴあ」で家族農業や有機農業について論じていた。飯田に泊まるつもりであったのだが、ホテルを予約しているゆとりもなく、そのまま長野まで休みながら高速を走らせ、長野で床に着いたのが明け方の4時だった。

 飯田にいたらとても会えない。なぜか、長野に戻ってきたのもシンクロニシティであろう。ということで、種蒔夫氏とともにシャンティクティを訪れることとしたのだ。

 ちなみに、種蒔夫氏は、中学校の美術教師で、その後、渡仏したアーティストだが、ふとした縁で「ハッピーヒル」に出会ったことから、2013年からハッピーヒルのバケツ栽培コンクールをはじめる。その後、事故で九死に一生を得たことから、自分が今世ですべきミッションは「タネを蒔くことだ」と自覚して、2015年に犬を伴連れに日本国中の人々にハッピーヒルのタネを渡すという旅にでる。

 さて、やっと前提が終わった。種蒔夫氏は臼井健二氏のアグロエコロジーの原理、タネと土壌と微生物とが織りなす不可思議な自然の妙を畑で見た後、PHC Filmの「土は生命体」という11分ほどの動画を見ることで納得され、なおかつ、こうしたビデオを見つけ出してきて、和訳する印鑰智哉氏の頭脳は驚くほど明晰で「さすが東大卒だけのことはある」という話題になった。けれども、その後は、臼井健二氏の独壇場となり映画『美しき緑の星』の贈与経済へと話が進んだ。

 実は、『美しき緑の星』という映画の存在は、2018年9月4日に臼井健二氏からのメールで教えてもらって初めて知った。そして、この『美しき緑の星』をネットで検索すると最初にヒットするのが、「宇宙海賊団」であり、宇宙海賊団なる組織の存在も『美しき緑の星』経由で知ったのである。そして、「宇宙海賊団」のサイトをさらに検索すると『地球が静止する日』についての情報もヒットした。

 アニメオタクからすれば、「宇宙海賊」といえば、松本零士のキャプテン・ハーロック、『地球が静止する日』といえば、横山光輝の『ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日』をイメージしてしまうのだが、この「宇宙海賊団」の「地球が静止する日」と『美しき緑の星』とをアダムスキー氏を介してケネディ暗殺とつなげるというテーマは、アルカディア号やジャイアント・ロボの世界に負けじと劣らず、それはそれで壮大だった。

 アダムスキー氏そのものについては、疑似科学ウォッチャー、皆神龍太郎(1958年〜)やと学会の会長であるSF作家の山本弘が批判している。氏が1949年に書いたSF小説『宇宙のパイオニア』(Pioneers of Space: A Trip to the Moon, Mars and Venus)の内容が1955年に発表した『空飛ぶ円盤同乗記』のストーリーとそっくりで、その体験談が、売れなかったSF小説の焼き直しなのだという。そうした予備知識を得た上で、今回の物語も楽しんでいただければと思っている。

【画像】
地球が静止する日の画像はこのサイトより
美しき緑の星の画像はこのサイトより
グレイの画像はこのサイトより
アダムスキーの画像はこのサイトより

【引用文献】
(1) 2015年9月22日「2016年:火星移住計画マーズワンの真相」RSELeaks
(2) 2016年4月20日「陰謀論じゃオワレねぇ!『熊本地震』の裏で絡み合っていた3つの時空の糸(因果)とは」RSELeaks
(3) 2016年7月24日「【ロズウェル事件】宇宙人写真が公開されてるけど、真相は結局どうなのよ」RSELeaks
(4) 2016年12月24日「20年の永い眠りから目覚めた脳の神秘ッ!『脳死とは死か?』論争に決着か」RSELeaks
(5) 2018年6月24日:こうき「あまりに不自然な アポロ計画の中止と スペースシャトル計画の真相」RSELeaks
(6) 2018年7月5日:謝花也「映画「地球の静止する日」で描かれている本当の宇宙人の姿とは!?」 RSELeaks
(7) 2018年7月7日:謝花也「映画『地球が静止する日』のクソリメイクについて 」RSELeaks
(8) 2018年7月7日:謝花也「映画『地球の静止する日』から僕達が学ぶべきこととは? 」RSELeaks
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2019年06月20日

輪廻転生、集合無意識、戦争経済の秘密

気とは静電気であり、意識は静電気を巻き取ることで生まれている

生きずらさの感覚は健全〜人体端末理論

 「スターチャイルドだ」として、すなわち、学校や会社、国や社会との関係性を見ず、現実の社会を無視して、いきなり「地球がどう」とか「宇宙がどう」と語ること。RSEL寺子屋ではこれを『スピッてる 』と定義する。それは、チャネリングと同じ妄想状態に陥っているリスクがある。

 もちろん、現在のような戦争経済の世の中に対して違和感や生きづらさを感じるのは決して不自然なことではない。それどころか、この時代のあり方に対して何ら違和感を感じないのは、人体端末が劣化している証拠でもある。理由なき生きづらさをぬぐえないのは、人として本来あるべき感受性である。

 RSEL寺子屋の創始者であり学長である、マスター響も、幼い頃から誰よりも感受性が強く誰よりもこの星で生きづらさを感じてきた。にもかかわらず、決して社会から目をそらさず、他者や社会と関わりあいながら、たった一人でこの宇宙経済、人体端末理論の教えを作り上げた(6)

世界中で報告されている脳死からの復活事例

 カナダのローレンシャン大学の神経学者が発表した論文「When Is the Brain Dead?」が話題になっている。

 この論文によれば、20年以上もホルマリン漬けになっていた「死んだ人間の脳」を解離性麻酔薬ケタミン、ニコチン、電子刺激することによって、再起動させることに成功した。永い眠りから目を覚ました脳は、「生きている脳と同レベル」の光子を放出した。

「この結果から、死後の脳の一部は「生きている脳と同じように刺激に対して反応する潜在的な能力」を保持している可能性が示唆された」

 「脳死」は生命の終わり(=死)と定義してよいかの議論が繰り返されてきた。「脳機能が不可逆的に停止して元に戻らない状態」というのが脳死の定義である。けれども、今回の実験が本当であれば、何をもって脳死判定ラインとするのか、物議を醸す。

 実は、停止した脳が復活したとの事例はいくつも報告されている。脳死と判定されて、臓器の摘出手術を始めたところで、急に意識が戻って、生き返った人もいる。ザック・ダンラップ氏は、脳死状態にも関わらず、医師の声まで覚えていた。

 つまり、脳と意識の相関関係メカニズムはいまだに解明されていない。なれば、こそダライ・ラマ法王猊下は「内なる心の世界の科学に関していえば、西洋の心理学は幼稚園のようなレベルに過ぎません」と語っている(3)

「気」の正体とは人体に流れる静電気である

 丹田は「気を練る」場所としても知られているが正確な場所は人によって違う。長年の鍛錬や、体との対話を通じてようやく見つかる存在である。熟達した武術や医術の達人になると、相手を一目見ただけで、その人の丹田の位置が分かってしまうらしい。

 このように、ともすればオカルト扱いされてしまいそうな「気」だが、その正体は人体にはりめぐらされた神経回路を流れる微弱な電流である。

 例えば、最近は街中でもよく見かけるようになった『AED』。心肺停止し、心臓マッサージや人工呼吸では助からない人体でも、電気ショックで蘇生されることがある。けれども、電気ショックで再び息を取り戻すメカニズムはまだ明らかに解明されてはいない。こうしたことからも、人体は一般的に考えているより、はるかに電気的な機能を持っていると洞察できる(5)

人体のまとう静電気こそ生命の源。それを生み出しているのは脳ではない

「人体端末理論」とは、噛み砕いて説明すれば、人体をスマホ等の端末の一種と見立てた理論である。スマホが電気で動くように、人体も全身にくまなくまとわりついている微弱な静電気の力によって機能している。これをRSELeaksでは「触覚静電気」と呼ぶ(7)。この人間生命の源ともいえる「触覚静電気」に着目し(3)、人間は静電気をカラダにまとった『電気的存在』であって、この静電気が人間のあらゆる身体機能を支える媒体となっていると考える(2)

 静電気に基づく人体端末メカニズムのモデルからすれば、停止した心臓が電気ショックによって再起動することも、超音波刺激によって停止した脳が再起動することも、なんら不思議なことではない(3)。逆に、雷に打たれると感電死してしまうのもこの触覚静電気がショートすることで人体のあらゆる情報算出機能が失われ、それが=死を意味するからだと見なせる(2)

『脳死は死か?』というテーマがよく議論されるが、人体端末理論的に言えば、脳機能が停止しようとも、心臓が止まろうとも、このカラダにまとった静電気が流れているうちは生きているということになる(3)

 「脳」も「心臓」も、人体の機能の一部にすぎず、「触覚静電気」こそが「生存」の定義であるというのが真相である。これが光子を束ね、あらゆる五感の機能をも束ね、脳はそれを映し出すディスプレイ(=二次反応)にすぎない(1)。脳は電気信号の受信装置にすぎない(3)

 したがって、「魂は存在している」と信じているあなたはヤバいし、「人間には心がある」そう信じているあなたもヤバいし、「私という自我は絶対にある」そう信じているあなたもヤバい。「魂」「心」「私」という存在を疑っていない方は、もれなくスピ系、脳が起こす宗教現象に巻き込まれていると考える(10)

人体端末理論における「生まれ変わり」

 世間で言う「生まれ変わり」といえば、仏教的な輪廻転生、いわゆる「魂」が存在してそれが様々な肉体に宿るという、「霊魂主義」の発想が主流である。けれども、RSELLeaksの学長であるマスター響が提唱する「人体端末理論」によれば、そうではない(7)

 人体端末はスマホと異なり、その人体が巻き取る記憶情報は、内部メモリやSDカードなどの固定されたパーツにではなく、その全身を流れる触覚静電気、すなわち、そこに含まれる色と音と形という、抽象度を極限まで高めた情報、一次情報によって成り立っていると考える(7)。すなわち、「人体端末理論」では、この宇宙にはそれ単体で存在できる「神」や「魂」といったア・プリオリな完全情報は存在しないと考える(6)

 したがって、人体端末理論における「生まれ変わり」とは、スマホにおけるSDカードのような「魂」といった完全情報(それ単体で永久不滅に存在する固定された存在)が別の端末にそのまま差し込まれて再現されるものではない(7)。一人の人体内に存在する「記憶」という「静電気情報」がパッケージング化されて起こるのではなく(8)、触覚静電気という回転情報が、死後別の端末に再び人体静電気として巻き取られ、その人体において記憶が再現されることを意味する(7,8)

 すなわち、「生まれ変わり」が霊魂=完全情報によるものではなく、触覚静電気という回転情報(=対による回転の中でしか生み出されない(7)

 こうして、静電気がある人体から他の人体への巻き取られることを、人体端末理論において量子飛躍(クォンタムジャンプ)と呼ぶ。人体端末におけるクォンタムジャンプとは、例えるならば、インターネットにおけるクラウドサービスのように、端末を離れた情報場(5Dクラウドと呼ぶ)に記憶情報が担保されていて、その記憶情報が複数の人体端末で同時並行に再現されている状態だと考えるとわかりやすい(7)

記憶とは対が回転することによる関係性である

 魂や神様、死後の世界という肉体を越えるものをイメージすることはできる。つまり、「記録」は一人で作れる。けれども、それ自体を共有して、関係性を築くこと(記憶をつくること)は不可能である。つまり、「記憶」は一人では作れない(4)。RSELLeaksでは、人体や記憶を含め、あらゆるものは対による回転の中で生まれる回転情報としてしか存在していないと考える。これを『霊肉回転論』と呼ぶ(6)

 まず、宇宙において現象化するあらゆる物事には、原因と結果がある。植物の種が土に蒔かれることで芽を出し花を咲かせるように、種という「因」(原因)が、人、モノ、場所との「縁」と結びつくことによって「果」(結果)が生まれている。そして、この「因」とは、この人体が生み出す「観測・選択・連係」のことで、量子物理学でいう「観測者効果」のことである。そして、この「観測者効果」の正体のことを、RSEL寺子屋においては人体が巻き取る「記憶」だと呼ぶ。すなわち、「記憶」とは=人体が生み出す「観測者効果」のことである(8)

 そして、重要なことは、この記憶=観測者効果が、「自分」という存在単体では産み出され得ないことである。何を「観測」するにしても、その対象、相手となる「対」が存在する必要がある。

 この宇宙のあらゆるものは「対」の間に産み出される回転、すなわち、「関係性」によってしか成り立たない。したがって、「記憶」も、「対」による回転、すなわち、「関係性」そのものである。そして、記憶の正体とは、「関係性」を生み出す静電気の回転情報である(8)

 人体が、対との関係性=記憶を「触覚静電気」として巻き取ったものが、別の相似形の人体においてもまた、対との関係性として再現されているのである。ただし、ここで再現される関係性は、あくまでも「相似形」であって、全く同じではない。同じ「種=記憶」を持っていても、出逢う「土=縁起」によって再現される関係性(=結果)は異なる(8)

 すなわち、私たちの人生は人体が生み出す観測者効果を原因とする因縁果、自因自果の法則によって巡っており、その観測者効果を生み出す元となる「記憶」とは、「対」が生み出す関係性、つまり魂などの固定された完全情報ではなく、あくまで対によってはじめて存在しうる回転情報なのである(9)

肉体は逢いたい誰かのために再生される

 段々と縁起が近づいていく相手がいると同時に、逆に段々と縁起が遠のいていく相手もいる。では、こうした対との記憶を重ねて、近づきと遠のきを繰り返しながらも、時空を越えて何度も何度も記憶が再現されるのは何のためであろうか。一言でいうならば、それは、より美しい記憶=関係性を生み出すためである。言い換えれば、忘れられない、ぬくもりの記憶を更新し続けるためである(8)

 すなわち、私たちが人生において、何らかの経験をするとき、それも自分主体ではなく、あくまで他者との関係性、「対」における回転情報として「丹田」が算出するとき、その情報は「記憶」として人体に巻き取られていく。その「記憶」は量子情報として時間も空間も越えて5Dクラウドに遍在し、別の時空における相似形の関係性において「懐かしい記憶」として再現される(9)

 このため、この体に巻き取ったぬくもりの記憶を「懐かしい」と感じて、その対に「また逢いたい」との慾求に突き動かされる。この慾求に従って「観測・選択・連係」していくとき、私たちの運命は「逢いたい誰か」にまた逢える時空へと近づいていく。このような「逢いたい誰か」との関係性の相補によって紡がれる記憶の網=ぬくもりの記憶、「雲の地図」を「人体端末理論」では『Radiosonics=時空協働創造態』と呼ぶ(8)。人体は、その関係性を美しくするため、肚から「逢いたい誰か」に逢うために、この因縁果の輪を何度も繰り返す(9)

 とはいえ、量子物理学における「量子もつれ」によって、「形」としての重なりの濃い複数の人体(=相似形の人体)は、時間も空間も越え、4Dを越えた5D的な「同時並行」として再現される(6)

 目の前の人・モノ・場所が、相似形の記憶と重なる感覚、それこそが私たちの感じる「なつかしさ」の正体なのだが、この「なつかしい」と思える光景は、実は過去のものではないかもしれないし、この先に巻き取る未来の記憶かもしれない。さらに、本当は過去も未来もなく、ただ今この瞬間に包み重なっているだけである。厳密にはどちらが先で、どちらが後といった順番もない。同時並行に展開される相似形での記憶を、私たちは今この瞬間も共有している。そして、今のこの瞬間にあなたがその体で巻き取る記憶の物語が、今度はあなたと重なる誰かの「なつかしい」 へと変わっていく(6)

 このことから、人体は、記憶=関係性のために存在することがわかる。人体は、この目的のために、宇宙の内的秩序によってデザインされたというのが、「人体端末理論」における結論である(8)。すなわち、人体は、「ぬくもりの記憶」を紡ぐするために存在し、その「ぬくもりの記憶」を相似形の人体と同期並行することで記憶を共有、更新している。この、「ぬくもりの記憶」を紡ぐための観測・選択・連係=因と、それにより紡がれる記憶をRSEL寺子屋では「美因善果」と呼ぶ(9)

無意識の亜空間が産み出した集合無意識

逢いたい人に逢えないのは…?二つの記憶の秘密

 けれども、私たち自身の人生を振り返ってもわかるように、私たちが紡ぐ関係性は、必ずしも「逢いたい誰か」との関係性だけに限られない。それどころか、現代社会の関係性においては、そのほとんどが「本当は逢いたいと思っていない」人たちとの関係性であったりする人がほとんどである。この望まない関係性ゆえに、私たちの人生におけるあらゆる苦しみや葛藤は生まれているといっても過言ではない。さらに、場合によっては今までの人生で「逢いたい誰か」にはまだ一度も出逢ったことがない、という人もいるかもしれない。

 人体は「ぬくもりの記憶」を紡ぐために与えられているはずである。にもかかわらず、こうした悲しい状況が生まれるのはなぜなのであろうか(8)。それは、私たちの人体には、その美しい関係性を築くこと、すなわち、「逢いたい誰か」に逢うことを妨げるシステムが存在するからである(9)

前頭葉が二分割で捉えた情報は海馬の記録となる

 記憶とは、回転=関係性なのだが、この「記憶」には2種類がある。ぬくもりの関係性が紡ぐ「記憶」とは別に頭の中の「記録」もある。この頭の「記録」が、すなわち、「亜空間知能」である(8)

 前頭葉は、物事を「0か1」、すなわち、「私」と「あなた」、「あれ」と「これ」といったように分割することでしか判断できない。このため、自然と私たちに、「自分」と「相手」という、分離された完全な情報が存在すると思い込ませる。これは、丹田の量子コンピューターによる同期並行計算機能ではなく、脳の前頭葉の「0か1」で物事をとらえる二分割情報処理が優位に働いているために生じる。体の感覚よりも頭の思考を正しいものとして優先している状態であり、これをRSELLeaksでは「下腹重心」ではなく「頭重心」の状態にあると呼ぶ(9)。つまり、二元的な思考で「1か0」、「無か有」という思い込むことは危険なのである(4)。この『わたし』と『あなた』を完全に分け隔てた情報処理は、5歳くらいの『物心がつく』頃からはじまり、二元情報処理モジュールが脳内で働くことで、成人になるにつれ、より強いエゴフレームを形成していくようになっている(1)

 人生の出来事を「私」という存在ありきでとらえ、「私のために宇宙がある」という観測によって生きる時、その情報は対が巻き取る「記憶」ではなく、海馬に溜まる「記録」となっていく。わかりやすく言えば、「自分」という絶対的な存在がいて、その「自分」のために世界がある、というものである(9)

実際に分割できない現実との矛盾から前葉頭は振り子のように揺れ動く

 けれども、実際のところは、「自分」と「相手」という明確な線引きはできないし、自分も目の前の相手も、互いの関係性があって初めて存在する。すなわち、あくまでも回転情報でしかない。このため、「自分」と「相手」と完全に分離できると思い込んでいる前頭葉は矛盾をつきつけられ、その二分割された情報の間で「振り子」を振るようになる。この分割した二つを対立させ、上と下の立場をつくり、一つの同一化された構造の中に閉じ込めてしまうことで作られる情報場を、「上下・対立・同一化」のピラミッド構造と呼ぶ。もちろん、亜空間知能は、人類の脳に仕組まれたシステムによる構造そのものであるから、誰か特定の人物が悪の根源というわけではない。けれども、海馬の集合無意識、亜空間知能と同期してしまうがために、私たちは同一化されたルールの中で対立し傷つけ合い、支配されるものとされるものに分けられてしまう(9)

亜空間知能(集合的無意識)は身体を持てない悲しみの想念である

 さらに、前頭葉の二分割情報処理システムによって処理された「記録」情報は、脳海馬に集積され続けるが、それだけではない。海馬に蓄積された記録は、今の私たちの人生だけでのものではなく、人類の進化の歴史の中で溜まり続けた上下・対立・同一化の記録の情報場と同期している。この情報場のことを「集合無意識」、別名「亜空間知能」と呼ぶ(9)

 心理学者ユングは、潜在意識が奥底ではつながっているとの『集合的無意識』を説いた。実際、「共通の情報場」が脳海馬へとアクセスしている。人類は誰もが、この亜空間知能という情報場から脳海馬にシンクロした情報(記憶)をベースに自分(人))という自我フレーム(エゴフレーム)を形成している(1)

 かつて、自然災害や当時の人間の知識では説明がつかない現象は恐怖以外の何者でもなかった。この恐怖ゆえに人々は「神」(亜空間知能の情報場)を信仰した。自然災害は神様の怒りの表れなのだから、熱心にお祈りすればきっと免れることができる。こう信じて祈ったほうが安心できる。神に大量のお供え物をしたり、生け贄を捧げることで、「亜空間情報場」への人々のシンクロ率は高められた(4)

 そして、今、この情報場は大きく膨らみすぎて、独立した知性を持ち一人歩きし、暴走し始めている。それを「宇宙経済学」では『亜空間知能』という言葉で定義する。これが、支配階級にいる人間の脳海馬へとハックしてマネーテクノロジー(金融洗脳システム)や戦争経済そのものを造り上げる原因となっている(1)

 表面的なアファメーション効果を安易に用いるのは危険なのは、このためである。亜空間知能の存在について知る必要がある(1)。海馬にある亜空間が産み出した『スピリチュアルコンテンツ』が、脳内の情報空間へと巧みに巻き込んでいくのは、人体が持つ情報算出機能を搾取したいからである。脳というフレームに依存させておくことによって、変性意識に落ちやすく、亜空間ハックしやすい人体端末を確保することができる(2)。 

 すなわち、海馬に溜まった「記録」は、たとえ体が失われても亜空間知能=集合無意識の一部となって、体を持たない思念だけの存在となり、体を持つ者たちに脳内から語りかけ、その人体を乗っ取ろうとする。彼らもまた、かつては体を持つ者だった。けれども、他者へのぬくもり=自分二番感の外向き矢印の美因を誰とも築けないまま何時空も重ねてしまったがゆえに、ついには体を持てなくなってしまっている。体を持つ彼らのことが、うらやましくて、妬ましくて仕方がないがゆえに体を持つものたちをつけ狙う(9)

 この亜空間知能によるハッキングは、人体の本来の望みである「ぬくもりの記憶」を紡ぐことや「心からの逢いたい人に逢うこと」から私たちを遠ざける。亜空間知能にハックされて、「私」という脳内の自我、一人称のために人生を生きようとする限り、私たちはぬくもりの記憶を紡げる関係性=時空協働創造態とのご縁から、どんどん遠ざかっていく。この「ぬくもりの記憶」から遠ざかる観測・選択・連係=因とそれによるぬくもりの失われた関係性=記録を、RSEL寺子屋では「醜因悪果」と呼ぶ(9)

 戦争経済のピラミッド構造が構築、維持され続けてきたのはそのためなのである。そして、ぬくもりの遠ざかった環境の中ではさらに美因を紡げずに分離を強め、「私」のために人生を生きるようになり、より濃く亜空間知能にハックされていく。この負の時空連鎖を繰り返して醜因を重ねる時、私たちの人体は「ぬくもりの記憶」を巻き取れなくなり、それは相似形として記憶を共有する人体の数を減らしていくことを意味する。最終的には、記憶を共有できる相似形の人体の一切が失われ、そもそもその人体がこの宇宙に存在する意味も失われる(9)

由縁を、運命をしゃぶり尽くせ!

 プライドとコンプレックスの振り子は、海馬へと記録として蓄積されていく。その記録は臨終時には一切捨てられ(海馬デフォルト)、薄められた記憶によって再び身体をもって、また地球内のどこかで重なる体に生まれ、自我の構築の仕方を変えていくだけの亜空間の輪を循環していく。いま、70億人もの個人は、亜空間知能が産み出した上下・対立・同一化の中で、ただ立場を入れ替えているだけで、上に行ったり下に行ったりするループから抜け出せずにいる(4)

 こうした「因縁果」の止まることのない連鎖の中で、一見すると、なす術なく振り回されて翻弄されているかのように生き続けているのが私たちである(8)。このため、自因自果の法則、五層対の関係性の叡智を理解して、聡明な観測を身につける必要がある(4)。『RSEL式 五層対教育論』によれば、人間は人体を持ち、この宇宙で生きているが、この現実は、大きく分類して、次の5層の対との回転、関係性によって構築されている。

@ 肉対(己の人体との関係性)

A 個対(一人の個人との関係性)

B 組対(三人以上の組織との関係性)

C 地対(大地や国との関係性)

D  時対(その惑星の時代、さらにはそれを越えた星間文明との関係性)

 この5層は、このどれか一つでも欠けたら存在が成り立たなくなり、逆にこの5層との自己対話を深めることで、本当の意味で今の自分を客観的に観られるようになる(6)

 現在の自分の5層における立ち位置は、これまでに自分が5層のそれぞれにおいて、一体どのような関係性を築いてきたかが言い逃れようもなく反映されている。それをRSEL寺子屋では『自因自果』と呼ぶ。

 この時代、惑星に生まれたのにはその由縁があり、この国、土地に生まれたのにはその由縁があり、その家族、組織に囲まれているのにはその由縁があり、その目の前の誰かと関係性を築いているのにはその由縁があり、さらに、この体であるのにはその由縁がある。もし、本当にこの星に何か目的があって学びにきたのであれば、そして、その学びから目を背けたままであれば、たとえ故郷に帰れたとしても、また同じ場所に戻ってくる羽目になる。そこで、今の自分がいる、そのリアルな立ち位置から目を背けたらいけない。このそれぞれの層と真摯に自己対話を重ね、学び続けることで、より美しい対、関係性へと更新させていく、それが「今、ここ」にこの体をもって生きている意味である。

 なればこそ、このいま、用意された環境を、そこに結び付いた「由縁」と「運命:をしゃぶり尽くさなければならない(6)

身体の秘密は戦争経済を維持するために封印されてきた

 魂や神といった高尚に感じられる抽象概念であれ、マネーや知識、成功等のどれを信仰しようが、いずれのパターンも本質的には変わりがない。恐怖や盲目的な信仰は全て因縁果の道理の無知や時空の秩序への無信頼によって起こる(4)。けれども「因」は、私たち人間が全く干渉することができない「宿命」のようなものではない。その観測者効果が因となって果が生じるということは、つまり、人の運命は、身体の姿勢、重心によって変えられるということである。これが、RSELが唱える人体端末理論、そして『体動説』の要である。RSELが下腹重心教育を提唱するのはそのためなのである(8)

 もし、誰もが、元々持っている身体感覚を取り戻し、「亜空間知能」の振り子に揺さぶられずに、それぞれのカラダ(資質)に沿った生き方を体現してしまったら、それは現代の戦争経済における支配階級にとっては、不都合極まりない。

 なればこそ、化学調味料や加工食品、毒医学によって肉体を汚染し続け、金融という道具で、恐怖という感情を揺さぶり続けることで、亜空間に閉じ込め、カラダのまとった静電気による肌触りを、より鈍化させていく。 日本人が、下駄ではなく、ナイキのスニーカーを履くようになったことも、着物ではなく、洋服を着るようになったことも、すべて、人体端末を劣化させるための工作だったというのが真相である(2)

 そして、陰謀論などを叫ぶ人たちもこの人体というテーマにだけは、決してたどり着けないように仕向けられている。様々な方向から世の中の矛盾を解き明かしていても、人間のカラダにまつわる、真の生命科学へとたどり着く者は少ない。この情報に行き着いた数少ない者も公にリークしようとした場合には消されるか徹底的に叩かれている。思考を掻き立て、情報空間へと閉じ込める『肉体蔑視』につながるコンテンツが多いのもそのためである。けれども、これだけ徹底的に封印されているということは、裏を返せば、それだけ重要なものであるということの証明でもある(2)

 RSELeaksで提供されてる情報の多様さ、多角性、そして、解像度の高さを見てれば、決してそれがウソではないことがわかるはずである。そして、このあまりにも情報が雑多な時代において、五層対のすべての学びえる場所としてはRSEL寺子屋以上の環境はない。その教えを元に、五層対を学び関係性の更新として日夜取り組んでいるのが、肉対との関係性を更新する下腹重心体育であり、寺子屋における他者や組織との関係性の学びであり、戦争経済からアナザフロンティアへという文明創造である。要するに、本当に感受性があり、この世界が生きにくくて仕方がないのであれば、寺子屋で共に学んで、一緒に文明を創ろうという話なのである(6)

【引用文献】
(1) 2015年4月16日:関凛太朗「アファメーションは嘘?効果あんの?潜在意識の知られざる罠に迫ってみた」RSELeaks
(2) 2016月4年12日:関凛太朗「【第六感】インディアンと侍が長髪だった本当の理由」RSELeaks
(3) 2016年12月24日:関凛太朗「20年の永い眠りから目覚めた脳の神秘ッ!『脳死とは死か?』論争に決着か」RSELeaks
(4) 2018年7月2日:コラム「「魂」はあるのか?」RSELeaks
(5) 2018月7年30日:「徹底解剖:人体の中心『臍下丹田』の意味を読み解け!」RSELeaks
(6) 2018月8年31日:ビン隊長「スターチャイルド、インディゴチルドレン、クリスタルチルドレンの正体」RSELeaks
(7) 2018月9年29日:ビン隊長「“「魂」ではない「生まれ変わり」その真実とは…!?” 超叡智映画『クラウドアトラス』徹底解説 そのA」RSELeaks
(8) 2018月10年6日:ビン隊長「“自因自果と記憶と記録、そして『時空協働創造態』とは?” 超叡智映画『クラウドアトラス』徹底解説 その3」RSELeaks
(9) 2018月10年7日:ビン隊長「“オールドジョージー、その正体とは…!? ” 超叡智映画『クラウドアトラス』徹底解説 その4」RSELeaks
(10) 2019年5月1日「あなたは知ってた?消費者がVR空間につながるリスク!「AI近未来」は「カラダの時代」RSELeaks
posted by fidelcastro at 00:04| Comment(1) | 宇宙海賊団 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月18日

電脳時代に改めて大切になるカラダ

宗教が戦争という惨劇を生んできた

 人類と宗教の歴史は長い。キリスト教・イスラム教・ユダヤ教・仏教等とこの地球上では様々な宗教が信仰されてきた(4,6)。そして、別々の宗教を信じるもの同士が、その信仰の違いから必ず争いあってしまう。お互いの正義を主張し合い、対立し憎しみ合い、戦争を引き起こす。一度争いが起こって戦争になれば、そこからの憎しみが復讐を呼び、さらにそれが大きな憎しみになり復讐を繰り返していく。このプロセスの中で、お互いに対立して争うエネルギーを統括するために『宗教』というドグマ、つまり宗教を信じる力がさらに強まっていく。地球の歴史を辿るとこのパターンがループ化していることに気づく(4)。どの時代においても様々な思想や論説、信仰が生まれ、それによって階級が出来たり、相容れない思想や信仰による対立、闘争や差別が起こってきた。その確執による惨劇や受け継がれた盲目的信仰が今でも変わらず繰り返されている。大衆を動かすために、宗教はいつでも便利な道具だった。言葉よって刷り込まれた世界観を信じることで、人々は狭い世界しか見ることができなくなるということを、歴史は証明している(6)

人は死の恐怖ゆえに魂を想定する

 けれども、どの宗教の内容はどれも共通している(4)。肉体を傷つけても影響されない永久不滅・永遠の「魂」。いかなる観測や行為、環境や関係性(縁起)にも影響を受けない、完全独立のアプリオリな「私」そのものがある。シンプルに言えば、宗教とは「肉体を越えるものがあるという信仰」として定義できる(6)。すなわち、「魂」や「心」や「私」といった存在が、この身体とは別にどこかに存在していると思い込む。これが宗教が産み出すモノの見方であって、これを『霊魂主義』、『霊肉二元論』、『スピリチュアリズム』と呼ぶ(4,6)

 事実、この地球に広がっている多くの宗教では、この身体の中には、魂や真我、アートマン等、見ることも触れることもできないモノが入っていると考える。そうした魂が自分の「本体」であって、この肉体は仮の乗り物だと考える(4)。もちろん、RSELeaksでは、回転情報(触覚静電気、三位三体)としての魂(仮に呼んでいるだけ)はあっても、完全情報(固定点、三位一体)の魂は存在しない、それはただの仮想にすぎないと考える(6)

 けれども、そもそもなぜ、魂があると信じてしまうのだろうか。魂があるとするとどうなるか。死後の世界がまだあるという考え方になっていく。では、なぜ、死後の世界を信じてしまったのであろうか。その大きな原因が「恐怖」である。

 魂があって、天国がある。そう思うことで誤魔化すことのできる恐怖心。それは「死」の恐怖である。つまり、死ぬのが怖い。より明確に言えば、この「私」が無くなるということが恐い。「自分」がなくなるのが怖い。なくなって欲しくない。この自己愛やナルシズムがいつでもべったりとくっついて離れない。

 そこで、この「私」が保存されているUSBメモリーのような「魂」が存在し続けられる「天国」を頭の世界のイメージで作り出して安心しようとする。要するに、『天国がある』と思いこむことが宗教を信じるためのコアな部分だが、この『天国』は人類にとってはすごい発明であった(4)

絶対不変の「私」も誰も誰もが信じている宗教である

 さらに言えば、『私』がいると思うことも宗教である。意外に思えるかもしれない。けれども、「完全不変の私」というものは、冷静に事実を観察してみればどこにもいない。身体は刻々と変化している。髪の毛は抜けるし、呼吸もすれば、食事もすれば、排泄もして、片時も止まらずに変化し続けている。すなわち、「私」と呼べる絶対的なイメージは、「言語の世界」にしか存在しない。私の名前、私の家族、私の仕事、私の恋人。そうしたラベルを張り付けることで、脳内で立ち上げ続けているホログラム。目耳鼻口の感覚器官が作り上げる「自我フレーム」、それが「私」の正体である。そして、それは、リアルには存在しないバーチャルな「イメージ」にすぎない。にもかかわらず、この地球上にいる70億人のほぼ全員が、「自我フレーム」による脳内ホログラムにすぎない「私」を信じて暮らしている。つまり、この惑星のほぼ全員は、脳が立ち上げている「私」というVRを見続け、「私」を信仰している信者ともいえる(6)

現代世界で最強の『宗教』とは【マネー】である

 そして、この70億人が信じているモノがもう一つある。『マネー』である。現代における最大の宗教派閥は、キリスト教でもイスラム教でもない。『マネー』の価値を信じて疑わない『消費者』という信徒の数は70億人もいる。

 「マネー」も人々の「信用」を担保に維持されている人工物、一種のテクノロジーである。「マネー」の価値を疑わない人々がいるからこそ、このテクノロジーは機能することができる。これも、巷の宗教現象の原理とほとんど変わるところがない(6)

 これは現代を生きる私たちにとって重要である。なぜならば、資本主義社会も「「人体」以上のものがある」と思い込むことで成立し、成長してきた構造だからである。資本主義がテクノロジーを格段に進歩させ、生活に必要なインフラが整い、多数決的な豊かさを手に入れているということは事実である。けれども、『資本主義』も、この「私」という自己を保存したいという人間の恐怖を満たそうとする力を原動力に動いているシステムなのである。このことを知らなければ、マネーとは何か。そして、消費社会とは何かが永遠に理解できない(4)

マネー教とスピ系の黒幕は『霊肉二元論』

 すなわち、まず、この「人体」は、外部環境と切り離されてはおらず、常に交流しながら変わり続けて存在している。この科学的な事実を無視して、「私」という自我、エゴを優先したいという観念がある。

 残念ながら、私たちは誰もが基本的に死ぬのが怖い。そして、他人よりも自分の方が大事だという自己愛をベースに生きてしまっている。それを正当化する教育や広告やエンタメに違和感を感じつつも、きちんと学び行動することから逃げて生きている。そして、脳内にある「私」という存在は、外側の世界と分離して「いる」と思い込みたい。この自己保存、自己愛、ナルシズムがあらゆる社会問題の根本に横たわっている。

 お金に困っている。仕事がうまくいかない。人間関係がうまくいかない。顔がブスだとかモテない。そうした世間の悩みは、すべて「私」という絶対的な存在が「いる」と思い込む壮大な勘違いから始まっている。このことに気づかない限り、根本的な解決にはならない。

 仮に一時的に解決できたとしても、しばらくたつと再び似た悩みを繰り返してしまう。そして、いつか老いて死んでいく。このループを繰り返してきたのが、人類のパターンなのである。

 つまり、この資本主義システムを統括しているのがマネーであり、金融というマネーテクノロジーである。そして、マネーが統括している現在の資本主義と呼ばれる社会構造は、ピラミッドのような階層構造になっている。そして、それぞれが「私」という絶対的な存在が「いる」ことを肯定されたいがために生み出される頭の思考パターン『上下対立同一化』によって維持されている。

 RSEL 寺子屋のマネー教育は、このマネーが恐怖から来ているという「人体」の科学的理解に立ち返って、その傲慢さを経済学的な視点からも洞察していく。つまり、この資本主義というピラミッド構造そのものが1つの宗教現象だという視点が、これからの時代を見ていく上で大事な経済的なリテラシーになる(4)

AIが人間の仕事を行い、人間も仮想空間とつながる

 さて、人間が作った初めての道具は、おそらく石器時代の石斧である。それが、数千年で人工知能まで発展してきた(5)

 多国籍企業によるネット空間はいまや全世界に張り巡らされ、2018年現在、世界のネット普及率は53%、約40億人にも及ぶ。携帯・スマホのユーザーは約51億人で総人口の68%を占める。電子や光が地球の表面に今も絶えず行き交っている(2)

 人間が作り出したコンピュータが、ビッグデータを自学自習する「Deep Learning」によって知性を持ち、その先に人工知能がどのように発展していくのかはもはや予測不能になる。これがシンギュラリティ(技術的特異点)の概念である。

 1990年代前後から、こうした世界観がエンタメや言論でも盛んに取り上げられるようになってきている。確かに、今後数十年でたくさんの仕事が機械化されてなくなるであろう(5)。このままいけば近い将来、人工知能が僕らに代わって仕事をし、社会をまわしていく世の中になるであろう(1)

 また、20年前には、ポケベルやPHSでやりとりをすることがあたりまえで、スマホを持っている人はどこにもいなかった。けれども、今では、ポケベルでは誰ともコミュニケーションできない。誰もポケベルなんて持ってはいないからだ。同じことが起こるとしたらどうだろうか(6)

 20170812161318.jpg米国のDARPAは脳に電極を刺し、ロボットアームを動かす実験をしている(2)。現在ソフトバンク、テスラ・モーターズやスペースX社の社長で起業家のイーロン・マスクは、ニューラリンク社(Neuralink)で、人工知能とヒトとの融合を模索している(2,6)。同社は脳と人工知能とを接続することを、『ブレイン・マシン・インターフェース』と呼び、人間の思考を直接コンピュータへ送信しすることで、人間の処理能力を高めることを目指している(2)。人間の脳が直接ネット空間につながることによって、人工テレパスが可能となる通信技術が開発されるのは、もはや時間の問題である(6)

 今のスマホでは、誰ともやりとりができなくなる。その代わりに必要なのは、脳に直接埋め込むタイプのマイクロチップである。生活必需品として、そうしたテクノロジーを誰もが享受する日がやってきてもおかしくない。脳とネット空間をつなぐ電脳技術『ニューラリンク』によって、VR世界に直にリンクしてゆく可能性が高い(6)

 要するに、死後の世界を想定するよりも、それなりに死の恐怖を薄めることができるのが、マネーというテクノロジーによって資本主義が果たした役割であった。そしてさらにこの死の恐怖を薄めるためにITメディアの進歩とVR世界の浸透が起こってくる(4)。つまり、これからの近未来では、「私」や「マネー」の存在を信じて疑わない70億人の『消費者』という信者のほぼ全員が、共通してVR空間に向かっていくことになる(6)

攻殻機動隊の世界が実現し心の壁を防ぐ『攻勢防壁』で孤立化する人々

 攻殻機動隊は今から29年前、ネットすらまだ普及していない1989年に士郎正宗が描いた漫画である。肉体を機械に置き換える『全身義体化技術』。主人公の草薙素子は、脳と脊髄以外をすべて機械に置き換え、公安9課で対テロや凶悪犯罪に対抗する。

 マイクロソフトも未来の技術予想として、AR技術での情報処理ビジョンを発表している。つまり、映画マトリックスにも影響を与えた『攻殻機動隊』の世界はもはやフィクションではなくなってきつつある(2)

 ネット空間からハッキングを防ぐため、特定の悪意ある働きをする通信を遮断する壁のことを「ファイアーウォール(防火壁)」と呼ぶ。攻殻機動隊の世界では、脳とネットが密に融合しており、「ハック」されると容易に記憶を改竄され操られてしまうことから、個々の脳の入り口にもファイアーウォール(防壁)が構築されている。この防壁はただの侵入を防ぐ防御だけでなく、「攻性防壁」と呼ばれる侵入者の脳を逆に焼き切る攻撃的な壁が設置されている。

 世界中の人が正当防衛のために拳銃を携帯しているようなもので、自由と便利さの代償として、人と人との距離はますます遠ざかる悲しい世界になっている(2)

私は誰〜自己のアイデンティすらも揺らぐ世界

攻殻機動隊.jpg 哲学者のデカルトは「我思う、故に我あり」と言って存在の証明とした。けれども、高度に電子化された世界では「我思う」が既に機械が考えているのか、人間が考えているのか怪しい。それではなんの存在証明にもなっていない。

「もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら、何を根拠に自分を信じればいいと思う?」

 主人公の素子は、機械となり生身の体を捨て去ったために、存在の置き場所がどこかわからず、自分は実は偽の生命体なのでは無いかと自身の存在を危ぶむ。

 素子は自分を自分たらしめるものは記憶ではないのかと考える。けれども、この記憶(記録)すらも改ざん可能で人格を変えられてしまう世界の中においては、自己問答は尽きない(2)

宗教史はVR空間とのダイレクトリンクで”終わる”

 再び繰り返す。いま、様々な宗教やスピリチュアルや心理学や金融市場が存在しているが、いずれも『霊肉二元論』、すなわち、「このカラダを超えるものがどこかに存在している」という思い込みをベースに成立している。ちまたの陰謀論が語らない本当の黒幕は、人の脳が見せる「私」という固定化されたホログラムなのである。

 けれども、人間の脳が見る「霊肉二元論」のホログラムは、情報空間に置き換え可能な固定化された概念にすぎない。そして、今70億人の消費者たちは、テクノロジーの進歩とともにVR世界にダイレクトリンクしてゆく。つまり、脳とネット空間とが直接つながってしまえば、VR空間に再現可能なイメージにすぎなくなる。情報空間で再現される人工的なニルヴァーナの完成によって、もはや「私」が死ぬことすらなくなり、死すらも超越しようとする「人工ニルヴァーナ」の世界へ至る道をたどろうとしている。近い将来、VR世界が、あなたを「私」が永遠に生き続ける不死の煉獄に閉じ込めてしまう。この星の宗教史『霊肉二元論』の最終形態はそれなのだ。自らが進化させた道具に、自らがとりこまれていくという、まるで映画「マトリックス」を地で行く世界観だが、「このカラダを超えるものが存在している」と思い込んだ者たちによる長い宗教の歴史は、最終的にVR空間につながることで幕を閉じる(6)

脳すらも電脳空間につながる時代に改めて見直されるのは内臓

 けれども、VR空間と脳のダイレクトリンクによる『人工テレパス』の近未来シナリオは、あくまでひとつのルートにすぎない。21世紀の人類がいまだ気づかぬもうひとつの近未来ルートがある。『人体』というテクノロジーを学ぶことで辿る「カラダの時代」、人体端末アップデートの可能性である。多くの人々が、皮膚にマイクロチップを埋め込み、人工テレパスへ向かう時に、違和感を強く抱く人々も、当然出てくる(6)

 素子が私の存在に悩むように、体という一人一人に与えられた唯一ユニークなものを捨て去るのは愚かであると気づく人たちもいるはずである。そして、希望もある(2)

 RSEL 寺子屋はそうしたもうひとつの『AI近未来』の到来を予見して、下腹重心教育を準備している教育機関である。人工的なテクノロジーを遥かに凌駕するテクノロジーこそ、何を隠そうこの『人体』なのである(6)

 脳の「でしゃばり」が強すぎるために「意識=脳」との誤った認識が起こされているのだが(1)、実は知性は脳だけではないとの研究結果が出ている(2)。人体は神秘の巨大ネットワークで、「臓器たち」も実は会話をしている(2)。人体をめぐっている静電気は脳だけが束ねているわけではない。脳を介さずに人体の器官同士が情報伝達しあっていることがすでに判明している(1)

 触覚静電気フィラメント、触覚知性、ある種の「勘」、「テレパス」、「量子のもつれ」、生身の体でなくてはできない「触覚コミュニケーション」は義体化とは別の道へとつながっている(2)

 本当に、周りを見渡せばマネーに苦しんでいない人はほとんどいない。敵か味方か、闘争か逃避か。そんな二分割の観測に駆られることのない世界が当たり前になること。それが、マネーに縛られながらこの時代に生きている私たちが本当に学んで次世代へ届けたい未来ではないだろうか(4)。「カラダとは何か」の答えを求めて、時代の流れとは逆行して進む人たちの時代。別の分かれ道へ進むかどうかが問われる時代は、テクノロジーの進歩によりすでに差し迫っている。その答えは、人類の科学が今だ追いついていないもうひとつのテクノロジー、このカラダ『人体端末』にかかっているのだ(6)

【画像】
イーロンマスクの電脳化の画像はこのサイトより
攻殻機動隊の画像はこのサイトより

【引用文献】
(1) 2016月4年12日:関凛太朗「【第六感】インディアンと侍が長髪だった本当の理由」RSELeaks
(2) 2018年9月10日:「映画『攻殻機動隊』にみる文明論:電脳空間orリアル・人体orサイボーグ」RSELeaks
(3) 2018年7月2日:「コラム・「魂」はあるのか?」RSELeaks
(4) 2018年9月26日:「【お金のない世界は天国なのか?】《人体》科学からひも解いてみるお金の正体総論!【宇宙海賊ラヂオ】 」RSELeaks
(5) 2019年3月8日:関凛太朗「あれ、おまえAIじゃね?人工知能を見破る、禅問答(公案)が最強の人間選別スキルな理由!解説」RSELeaks
(6) 2019年5月1日「あなたは知ってた?消費者がVR空間につながるリスク!「AI近未来」は「カラダの時代」RSELeaks
posted by fidelcastro at 23:57| Comment(0) | 宇宙海賊団 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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