2017年07月24日

法王猊下のエコノミー@ 慈悲心を持った方が幸せになれる

はじめに

 先般、一法庵の接心に参加した折、書棚にダライ・ラマ、ファビアン・ウァキ『ダライ・ラマ、生命と経済を語る』(2003)角川書店という本を見つけた。

「ほう。法王猊下もエコノミーについて語られていたのか」と想い、早速、アマゾンで注文した。

 接心で一緒になったN君は非常に真面目で真摯な好青年なのだが、利他主義や慈悲について話してみると、中米の吸血コウモリが血をわかちあうという利他的行動を示すことは知っていたが、3歳以下の乳児も利他的行動を示すことは知らなかった。これは、一法庵に参加されているような方でも、慈悲をめぐるトピックについて知識について差があることを意味する。そこで、ダライ・ラマ法王猊下がお持ちになられている最先端の経済知識についてこの場をかりてわかちあいたいと思った。弟子であるマチウ・リカール博士とも重なることが多いが、法王猊下は多くの科学者と対談されているため、そのネタが新鮮なのである。ということで、Daniel Golemanの「A Force for Good: The Dalai Lama's Vision for Our World」を中心にその内容を紹介していきたい。

倫理の推進に失敗してきた宗教

 ある一人のヨーロッパの牧師が、かつてダライ・ラマ法王に対してこう語ったことがある。

「慈悲は信仰と神の恩寵を通じてのみもたらされます」

 けれども、ダライ・ラマ法王は、イルカやゾウのような動物も利他主義を示すではないか、と答えられた。ダライ・ラマは笑ってこう言われる。

「犬や猫ですら慈悲的かもしれないと感じます。ですが、私は、それが信仰のためだとは思いません」

 こう語ることによって、ダライ・ラマ法王は、ただ彼を宗教的な人物と見なす人たちに対して挑戦しているのである(p47)

何世紀も、宗教は倫理の基礎をもたらしてきた。けれども、「神は死んだ」以降の哲学やポストモダニズムによって、もはや倫理のための絶対的な基礎がないことを多くの人たちが感じている、とダライ・ラマ法王は指摘される。そのうえ、日々、ニュースで耳にされるトラブルを引き起こす人たちは、仏教であれ、ヒンズー教であれ、イスラム教であれ、ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、ある特定の宗教にかかわっていることが多い。

 ダライ・ラマ法王は「自分自身の信仰を強調するあまり、より大きいパースペクティブを忘れてしまうのです」と指摘する(p47)

 こうした度量が狭い信者たちの行動から「宗教的なモラルが真面目に受け止められていないことがわかります。自分の目的のために、他者を無視し、原典をゆがめたりしているのです」とダライ・ラマ法王は観察する。「もしも、慈悲の基本的な信念を欠くならば、宗教の効果はまったく限られたものになります」

 宗教は、数千年も倫理を促進しようと試みてきたが、失敗することが多かったとダライ・ラマ法王は指摘する(p48)

災害援助を試みる医師の方が本当の宗教家

 ほとんどの宗教の教えには、無欲さや親切さが、理想として見出される。けれども、こうした美徳は、非宗教的な倫理体系にも存在する。

「宗教を持たなくても、すべての人間のことを懸念する人たちがいます。ダルフール(Darfur)やハイチ、あるいは、衝突や自然災害があれば、どこであれ、ボランティアで出かけて行く医師や援助ワーカーのことを私は考えます。何人かは信仰心を持っていますが、多くはそうではありません。彼らの懸念は、ある特定集団にだけ向けられず、ただ人間のためだけに向けられています。彼らを突き動かしているものは、他者の苦しみを緩和するための本物の慈悲なのです」

 慈悲への多くの道を列挙し、ダライ・ラマ法王は「地球全体の労働者階級のことを感じる本物のマルクス主義者」の事例をあげる。そして、貧しき者たちを救済するための多くのキリスト教のグループの献身も賞賛される(p48)。ダライ・ラマ法王の慈悲は、人々を苦しみから救済したいという奥深い精神からもたらされてはいる。そして、世界的な指導者として、この慈悲的な倫理の基礎を探す際に、宗教、イデオロギー、あるいは、どのような信仰ベースの信仰体系もわきへおく(p47)

慈悲の心をもたれる法王猊下

 ダライ・ラマ法王は慈悲を持たれている。科学者たちと対談しているときにも、部屋の中を歩く虫に気づかれると、法王は、すぐに合図をして僧を呼ぶ。不注意で虫が踏みつぶされないように穏やかに外に運ぶように依頼される(p45)

 法王は、1989年にはノーベル平和賞を受賞されたが、その受賞した時の気持ちを問われたときにはこう答えられた。

「私は幸せです…。この賞を私に受賞してもらいたかった人たちのために」

 そして、受賞に金銭が伴うことを知ると、まずそのお金を誰に対して与えるのかを考えられた(p46)

すべてのモノを差別なく愛される法王猊下

 サンフランシスコ市長であれ、講演会場の舞台係のスタッフであれ、ミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)であれ、クレムリン宮殿のガードであれ、ダライ・ラマ法王は、誰しもをまったく平等に扱う。そして、こう指摘される。

「政府の高官であれ乞食であれ、違いはありません。区別はありません。民族、国籍、宗教、ジェンダー等は表面的な違いにすぎず、私たちはまず人間です」とダライ・ラマ法王は言われる(p56)

 自尊心(self-importance)の感覚は、この障壁になるかもしれない。法王はそれを鋭く意識する。

「特別な感覚とは、自己欺瞞の形です。自分を特別な誰かだとみなしてはなりません」

 そう法王は聴衆に対しても語る。

「数千人の人を前に話すときは、いつでも、彼らと自分自身が同じであって、同じ感情や同じ身体を持っていると考えます。そこで親近感を感じるのです」

どこに行くのであれ、ダライ・ラマ法王はこのメッセージを強調される。表面上の違いこそあれ、皮膚の下は誰もが同じでハードやマインドも同様につながっている。

「人種、言語、宗教、ジェンダー、冨等の多くの特徴によって、私たちは違ったものにされているもかかわらず、幸せを求め、苦しみを避けることでは、私たちは根本的にすべて同じであって、そのために平等です… 。基本的に、すべての存在は誰もが幸せとなって苦しみに打ち勝つ権利を持っています。私たち誰もが基本的な人間性に関してはすべて等しいのです。この私たちに共有された人間性への理解が、私たち誰しもを慈悲へと導くのです」(p57)

「彼らが人間である限り、彼らが私たちの兄弟や姉妹であるかぎり、もはや、信仰、国籍、あるいは、社会的なステータスがなんであるのかを気にかけないのです。私たちの敵でさえも人間です。彼らは実際には私たちの兄弟であり姉妹です。ですから、私たちは彼らをケアしなければなりません。そして 直接的であれ、間接的であれ、私たちの未来は彼らにかかっているのです」(p59)

汝の敵を愛せよと語るシャンティデーヴァとイエス

 ダライ・ラマ法王は謙遜、レジリアンス、慈悲といった質を具現化されている。世界中の人たちがそう賞賛する(p58)。そこで、ダニエル・コールマン博士は、法王が最もインスピレーションを受けた人物は誰なのかを聞いてみた。

Shantideva.jpg 法王がまず名をあげられたのは、8世紀のインドの僧侶、シャンティデーヴァ(Shantideva)だった。彼の経典、『入菩薩行(A Guide to the Bodhisattva's Way of Life)』について、ダライ・ラマ法王は語られることが多い。もちろん、『入菩薩行』は、はるか昔の僧侶向けに書かれた著作だが、その一般原則は現代でも広くあてはまる。自分の内なる世界をまず改善することから始めるというダライ・ラマ法王のビジョンは、『入菩薩行』の内容を反映しているように思える。

 けれども、ダライ・ラマ法王は、この同じ目的のためにはそれ以外にも多くの道があると指摘し、ロンドンでのキリスト教の黙想会では、マタイによる福音書の一節を披露した。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている(5:43)。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(5:45)。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(5:46)。

 マタイによる福音書は「敵に対して汝が慈悲をいだかずして、いったい誰に対して慈悲を実践するのであろうか?」というシャンティデーヴァの問いかけを想起させる(p58)。シャンティデーヴァは「敵は汝にとって最高のスピリチュアルな師である。なぜならば、敵は寛容さ、忍耐、理解といった質を高める機会をもたらすからだ」と説明する(p59)

小さな子どもは社会的地位や学歴や富裕かどうかを気にしない

 ある種の昆虫や爬虫類は、チャンスがあれば、自分の子どもすら食べてしまう。けれども、哺乳動物には、子どもをケアする本能がある。ダライ・ラマ法王は、さもなければ死んでしまう子どものための両親の本能的なケアが、慈悲のための強力な生物学的な傾向の印であると指摘される(p52)

「慈悲の最初の種は私の母親から来ています」とダライ・ラマ法王は語られる。

人間は、慈悲的な存在であることを示すため、ダライ・ラマ法王は「生物学は人間が社会的な動物であることを示しています。それは、他者の幸せを考慮して産まれてくることを意味します」と語る。

「私達が新たに産まれるときに、母親は大きな愛情を抱き、私たちはそれを完全に信頼し、人生の最初の歳月には、まさに生き残こるためにそのケアに頼っています。この信頼の絆のテンプレートは、人生を通じていだかれ続けます。ですから、愛情的な雰囲気に取り囲まれる時には、私たちはいつでもあれ幸せだと感じるのです」(p49)

「小さな子どもは、その人の社会的地位やその人の学歴や、その人がお金持ちであるか貧乏人であるかを気にしません。彼らが反応するのは、ただあなたの顔の微笑みです」とダライ・ラマ法王は指摘される(p50)

 これに対して、愛情が不足することは、幼少期であれ、もっと成長してからであれ、幸せにとって有害である。ダライ・ラマ法王は、愛情をもって育てられた新生児の脳は、無視されて、ほとんどふれられず、一人ぼっちにされていた赤ん坊よりもよく発展することを指摘する。母親から引き離された幼い猿が攻撃的に育つように、両親から切り離された幼児は、恐怖心や無力感を示すと語る。

「幼児が健全に成長するために優しく母親から抱かれることが自然のデザインに組み込まれているように思えます。母親の愛情を受け取れば、身体も心もより健全な状態となりますが、これを欠いた子どもたちは、メンタル面での発育でも有害な深い不安感があるのです」(p50)

3カ月の乳児すら慈悲的

Kiley-Hamlin.jpg ブリティッシュ・コロンビア大学の発達心理学者、カイリー・ハムリン(Kiley Hamlin)准教授は、ダライ・ラマ法王にその研究成果を披露する。

 母親の膝のうえに3カ月、6カ月、9カ月の乳児が座っている。子どもたちが見るのは、かわいらしい大きな目を持つ、円、四角形、三角形と、三タイプの主人公が登場するマンガである。「円」は丘にあがろうと四苦八苦している。「三角形」はそれに付き添い、丘にあがることを応援する。けれども、「円」が苦闘していると、その上を「四角」がジャンプし、「円」を丘の下に落としてしまう(p50)。そして、「三角形」や「四角形」のオモチャの人形をどれだけの時間見たかによって、乳児たちの好みを測定する。

「乳児やよちよち歩きの幼児ですら、すでに善のサインを示しています。乳児は自分の欲望しか興味がないと考えていますが、チャンスを与えれば、2歳以下のよちよち歩きの幼児ですら、気前よさを示すのです。幼児たちは厭わずにわかちあいます。そして、幸せになるのです」とハムリン准教授はダライ・ラマ法王に説明する。

「乳児たちはすでに感情マップを知っているわけですね」とダライ・ラマ法王は語られ、善が生得的なものであることを示唆された。

 国立精神衛生研究所(National Institute of Mental Health)で実施された一連の研究からは、2歳前の子どもですら、他の子どもの悩みに対して対応して、多くの場合、他の子どもを助けようと試みることが見出されている。例えば、1歳児は、別の赤ん坊が泣くのを見にすると、それを慰めるために自分自身の母を呼ぶ。また、別の赤ん坊が自分の指を傷つけたことを目にすると、痛いかどうかを知るために、自分の指を自分の口に入れたりする(p51)。 

Jerome-kagan.jpg ハーバード大学の心理学者ジェローム・ケーガン(Jerome Kagan,1929年〜)教授は、ダライ・ラマ法王にこう語る。

「人間は生物学的なバイアスを継承しています。怒り、嫉妬、利己主義、羨みを感じ、無作法で、攻撃的で、暴力的となるのはそのためです。けれども、私たちは、とりわけ、それを必要としている者に対する親切、慈悲、協力、愛情、養育のいっそう強力な生物学的なバイアスも継承しています。この先天的な倫理敵な羅針盤は、私たちの種の生物学的な機能なのです」(p52)

慈悲心を抱くと脳神経学的にも幸せになれるわけ

 ネガティブ感情によって、免疫系が蝕ばれ、糖尿病や心臓病等、様々な病気につながり、他者に対して慢性的に敵意を抱いていると寿命も短くなることが科学的にも判明している。人生に悩んでいるとストレスからの回復力が蝕まれる一方で、ポジティブで幸せだと感じていると身体の回復力も促進される。そのうえ、他者を助けると、不安や悲しみが減り、より幸せ感を覚え、生理学的にも、心臓病のリスクが下がる等、健康が改善されることが研究から見出されている(p53)

「免疫力を高めることから、病気にかかるリスクを減らすことまで、陽気、喜び、愛といったポジティブ感情は、様々な点で健康にとって有益です。その一方で、コンスタントな恐れ、怒り、憎悪は、私たちの身体を蝕みます」

 ダライ・ラマ法王はこう指摘される(p53)

 さらに、孤独や寂しさがストレス源にもなるとも法王は語る。社会的動物として、人間には、暖かなふれあいを求める生物的なニーズがあるからである。たとえ、多くのマネーがなくても愛情に溢れた家族は幸せだし、そうした家族を訪れる誰もが、そこでくつろぎを感じる。その一方で、こうした愛情を欠いた家族は不幸だし(p53)、緊張感を発していて、そうした家族を訪れる誰もが居心地の悪さを感じる。物理的な環境がどれだけ美しく着飾れていたとしても、感情的なつながりが不足していれば、冷たく放置されてしまう。

 ダライ・ラマ法王はこう指摘される。

「優しい家族と一緒にいれば、すぐに完全にリラックスできるのです」(p54)

 狭い利己主義は短期的には機能したとしても、後では不利益をもたらす。そんな短期的な利己主義を追い求めることをダライ・ラマ法王は「愚かな利己主義」と呼ぶ。欲望に執着し、常にイライラして、自己中心的になってしまうと、世界観が狭まり、幅広い文脈でしか物事が見られなくなってしまう。自分の利益や自分の抱くイメージだけですべてを見てしまい、他人のニーズにも気づけない。

 ダライ・ラマ法王は、他者が幸せなことが自分の幸せにもつながるとみなされ、これを「賢明な利己主義」と呼ぶ。自分が受け取ることができる暖かさの量は、自分がどれだけ他者に暖かさを与えるかによる。このシンプルな感情方程式から、他者に贈与すれば、自分も他者からの親切という見返りを受け取れる。けれども、それとは独立した内なる幸せも慈悲は産むことができる。

 これを「お助けハイ(helper's high)」と呼ぶ人もいる。他の誰かを助けることに対して精神を集中すると、脳内の快楽の回路、内なる報酬系が活性化する。同時に、自分自身の問題に意識を集中するときにだけ騒ぎだす脳神経回路は静まっていく(p54)。通常、心にはいらだち、不安、恐れが生じる。けれども、慈悲によって、こうしたささいな懸念がさらに大きな何かへと向けられる。この大きな目標がエネルギーを与え、内なるトラブルから解放され、幸せになるのである(p55)

 ダライ・ラマ法王は、自分の感情が周囲の人たちにどれだけ影響しているのかを深く自覚することが慈悲につながると指摘する。

「私の幸せにとって必要なものはそれです。他者のことを考えている瞬間に、あなたのマインドは広がります」ダライ・ラマはよくそう語る(p46)

 ダライ・ラマ法王が「愛することは、愛されているよりも、さらに重要性です」と駆られるのはそのためである(p54)

 日本で若者たちが自殺することを受けて、ダライ・ラマ法王は、若者たちが第三世界諸国の貧しい人たちを助けるためのボランティアをすることを勧める(p54)。貧しい人たちに尽くすことで、人生には大きな目的感がもたらされるからである。そのことは、心理学者も幸せの鍵として認めている(p55)

 「慈悲は私たちの恐れを減らし、自信を押し上げ(p55)、内なる力へと開きます。不信感を減らすことで、私たちは他者に開かれ、他者とのつながり感、人生における目的感や意味感を得られるのです」とダライ・ラマ法王は語られる(p56)

遺伝子を超えた愛情、普遍的な慈悲を磨く

「慈悲は、倫理のGPS、北極星の最終目的地であるべきです」

 そうダライ・ラマ法王は語られる。もし、他者のことを本物に懸念することができれば、より親切になれることができ、シニシズムの反動性からも解放され、力なき者や声なき者たちにとってより慈悲的な社会が産まれる。そうダライ・ラマは説かれる(p46)

 私たちが「自分の従兄や宗教、国家を愛している」と口にするとき、そうしたバイアスが愛情に制約をかけているのだ、とダライ・ラマ法王は指摘される。

 法王が求められる「本物の慈悲」は、生物的な遺伝子的な血縁による感情的な傾向を越えていて、私たちのほとんどが容易には達成できないレベルのものであるように思える。よく知っている人であれ、赤の他人であれ、他者の苦しみに対峙して、相手を問わずに助けること。ダライ・ラマ法王は、そうした普遍的な慈悲が、私たちの多くには単なる理想や希望のようにしか聞こえないことも認めている(p59)

 さらに、ダライ・ラマ法王によれば、慈悲は、ただ誰か別の人のための同情や慈善活動ではなく、そこには自分自身が含まれる。

「『自己への慈しみ(Self-compassion)』が必要なのです」

 かつて、法王は心理学者のグループに対してこう語った。本物の慈悲を磨くためには、自分自身の苦しみも懸念する必要もある(p56)

 もちろん、人間には、自分に最も近い存在に対して生物学的に自然な愛情を持つ。けれども、人類全体を愛するところまで、身内のサークルを広げることは自然にはできない(p60)。とはいえ、ダライ・ラマ法王は、正しい実践によって、愛情の普通を普遍的な愛情へと発展させることは可能だ、と強く主張される(p59)

 ダライ・ラマ法王はこう指摘される。

「経済においては、変化や成長のため5年計画、10年計画が展開されています。それは素晴らしいことです。けれども、慈悲を磨くためにも同様な計画が必要です」

 ただし、慈悲、慈悲、慈悲と1000回も言葉を繰り返しても、何も起こりません。とダライ・ラマ法王は語られる。

そして、そのためには、瞑想(cultivation)の努力を続けることが必要である。さらに、怒り、嫉妬等の破壊的な感情を減らすことはその助けになる。もちろん、このアプローチは常識や理性(reasoning)に依存し、いかなる宗教も必要とはしない。とはいえ、宗教的な信仰を抱く人たちは、信念を深くできると、ダライ・ラマは指摘する(p60)。 

 ダライ・ラマ法王はこう語る。

「信念は、慈悲を実践する能力を高めるやり方にはなります」

 けれども、より普遍的な慈悲への道がある。長い歴史を持つスピリチュアルな伝統は、いま、慈悲の磨き(cultivating compassion)方で新たな同盟を見出している。それは、科学である(p61)

【画像】
シャンティデーヴァの画像はこのサイトより
カイリー・ハムリン准教授の画像はこのサイトより
ジェローム・ケーガン教授の画像はこのサイトより

【引用文献】
Daniel Goleman, A Force for Good: The Dalai Lama's Vision for Our World, Bantam,2015.
posted by fidelcastro at 07:00| Comment(0) | ダライ・ラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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