「ほう。法王猊下もエコノミーについて語られていたのか」と想い、早速、アマゾンで注文した。この本の内容も紹介しておきたい。
はじめに
「認識においては徹底したペシミスト、行動においては途方もないオプチミス」
これは、イタリアのマルクス主義思想家、アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci, 1891〜1937年)の言葉だが、明治大学の中沢新一特任教授(1950年〜)は、ダライ・ラマこそがまさにそれに該当すると語る。現代の諸問題をペシミストとして認識しながら、オプチミストとして立ち向かう姿勢をまったく崩さない、と驚嘆する(p7)。
そのダライ・ラマが経済とビジネスについて語っている書物が、2003年3月に出ている。インドのダラムサラに近い法王の住居でファビアン・ウァキ氏(Fabien Ouaki, 1958年〜)との対談がなされたのは1995年7月10〜16日で、今から22年も前のことになるが、その内容はまったく古びていない。
ファビアン・ウァキ氏は、フランス中でチェーン店を経営する百貨店『タチ』の創業者の御曹司である。そして、斬新な多角的経営を展開しているバリバリのビジネスマンである(p7)。

その後、禅に興味を抱き(p111)、フランスを訪れたカル・リンポチェ(Kyabje Kalu Rinpoche, 1905〜1989年)と出会う(p15,p111)。そして、フランスを訪れたダライ・ラマの説法にふれて、自分が求め続けて来たものにやっと出会えた喜びに打ち震えるのである(p8)。
動物の権利を考慮しない法体系は仏教の縁起思想にそぐわない
ダライ・ラマ 全体主義体制が作り出す法体系、とりわけ、共産主義体制の法体系はただひとつの党派をひたすら守ろうとするものである。これは、人間の本性に反しているし、こうした体制そのものが誤っていると思う。法律とは、人間の創造性、自発性、能力を発揮させるための枠組みとしてあるべきである。
民主主義国においては法制度はそうした機能を果たしている。とはいえ、そのほとんどは人間の権利しか扱っておらず、動物や生き物の権利についての配慮がない。そのため、まだ仏教の相互依存の思想と矛盾している(p25)。相互依存、縁起の法則を現代社会の法体系と合致させるためには、法の視野を広げ、自然環境の保護や動物の保護を含める必要がある(p26)。
幸せに必要なものは、心の平安、健康、友人、最後がマネー
フェビアン氏は、利益のために働く人は何かしらの罪悪感を感じている。それがマネーだと感じていた。そのユダヤ・キリスト教的から、相続したマネーを常に重荷のように感じていた(p58)。そこで、こう問いかけた。

「金を持っていない人はいつも金のことを考えている。金を持っている人も絶えず金のことを考えている。どちらも心の平安を知らない」(p93)
ダライ・ラマ チベットにはお金を「クンガ・トンドップ」を呼ぶ。それは、「幸せをつくるもの」「みなが大好きなもの。成功をもたらすもの」という意味である(p41)。
現代ではマネーなしには生きることはできない。したがって、マネーは重要である。けれども、マネーがすべてであるとか、マネーさえあれば必要なものが手に入るという考え方は間違っている。この世の幸せを楽しむために最も優先すべきことは精神と心の平安を得ることである。二番目が健康、三番目が真実の友人、そして、最後に富がくる(p29)。心の平安を達成していれば、たとえ健康に恵まれなくても人生を生き抜いて幸せになることができる。したがって、心の平安こそが幸せを定義する唯一のものである。その基礎の上に健康が加われば、友人やマネーがなくても幸せを感じることができる。そして、心が平安で健康で、友人に恵まれていればマネーがなくても素晴らしい人生を送れる(p30)。
心が平安であれば健康にもなるし、穏やかな心を持つ人は、よい友人を引きつける。そして、心が平安な人はマネーを正しく使うこともできる(p29)。逆に不健康で心も平安でなく友人もいないが金持ちであるため幸せであるという人にはお目にかかったことはない(p30)。
金持ちは幸せであろうと誰もが考えている。けれども、実際に金銭を手にするとさらに多くを欲しくなり、決して満足できない(p93)。そこで、ダライ・ラマ法王は「あなた方は貧困からは解放されたが、お金の奴隷だ」と金持ちの友人たちに語る(p94)。
経済成長と経済格差は不健全〜人間らしい経済を
資本主義よりも有効だとしてもマルクス主義には慈悲心が欠けていた
フェビアン氏は、競争心の排除、富の分配が世界経済には組み込まれなければならないと考える(p89)。利益だけしか着目しない経済論理よりも、マルクス主義の再分配の理論の方が倫理的な配慮が含まれていたが、実際の問題解決の段階では、金持ちに対する憎しみが強くすぎ、慈悲心が足りなかったために問題があったと考える(p88)。企業活動にも利他主義は可能だろうか(p95)。
ダライ・ラマ 利他主義と経済とを結びつけることは最も難しい。けれども、グローバルな場面と個人の場面の二つのレベルで考えなければならない。
西洋では「毎年GNPが増えていけば経済は健全な状態にある」との考え方が最も普及しているが、こうした時代遅れの考え方はすぐにでも捨て去らなければならない。開発途上国と先進国との間では経済格差が広がっている(p31)。この経済格差は不健全なものであり、なくしていかなければならない(p38)。それのみならず、国内においても受け入れ難いほどの経済格差が広がっている(p89)。先進国の中でも貧困がある(p32)。最悪の場合、それは、取り返しがつかない事態にはまり込む。ましな場合であっても、多くの人に苦を与えながら経済システムそのものが危機を迎えることになる。そこで、経済をもっと人間らしくすることが重要である(p89)。
必要なだけで満足して生きれば失業も怖くない
けれども、開発途上国の生活水準が先進国が享受しているレベルにまであがれば地球の資源はどうなってしまうのであろうか(p38)。近視眼的な経済がもたらす遺伝子の研究もとんでもないことである(p92)。
先進国も本当に必要な分だけで満足すべきである(p39)。もし、本当に必要なものだけで満足するという原則に従って生きることができれば、誰もが不安や苦なしにゆったりと生きられよう(p107)。満足できる感情があれば、失業率の高さも否定的に捉えなくても良い(p108)。チベット人は失業と似たような状況でも呑気で気を揉んだりしない。失業者を社会的に劣った価値のない存在だと考える社会は西洋人が作り出した(p106)。
正しい知性が発揮されれば人間は平和な世界を実現できる
次に個人レベルである。私は、自分が楽観主義者だと思っている(p65)。私は非武装の世界を夢見る単純な人間だが、世界平和は必ず達成できると思っている(p56)。それは、人間の本性は優しく慈悲に満ちたものであり、正しく導かれた知性は必ずよい解決法を見出せると信じているからである(p65)。
どの生き物も、幸せを求めて苦を避けようと努力している。トラは他の動物に苦を与えるが、それは空腹な時だけであり、その行動の及ぼす範囲は限られている(p70)。ネコも責任を持って自分の子どもを守り育てる。そして、ネコやイヌが嫉妬したりすることは誰も目にしない。つまり、動物の破壊的感情は限られている(p71)。動物たちは憲法も宗教も持たないが、誠実さとごまかしをちゃんと見分ける力を持っている(p79)。
一方、人間の行動が多くの苦を生み出し、とてつもなく大きな悲劇を産み出している(p70)。知性が破壊的な力を制御できず、とめどもなく肥大化していくと恐怖や疑念、憎悪といった心の問題が生じる(p147)。しかし、だからと言って、人間の知性を押さえ込もうとすることは誤りである(p72)。例えば、不安を和らげようと抗鬱剤プロザックを用いて知性の働きを抑圧するのはこの上なくナンセンスである。知性の力によって暴力や憎しみをできるだけ和らげることが望ましい(p147)。
人間の本性は慈悲的存在である
けれども、現実の知性は自然な心の働きを抑えるものになってしまっている(p101)。上述したような問題に取り組むためには、人間の本性をもっと伸ばしていかなければならない(p98)。そこで、知性を損なうことなく、恐怖や不安を減らす方法の一つが、利他的な慈悲である(p148)。
私たちの人間性の一部はセンセーショナリズムに惹かれてしまう。そのため、1000人のお年寄りが手厚いケアを受けたとか、何百万もの子どもたちが親に愛されて暮らしているというリポートよりも、ぞっとする殺人事件を微に入り細に入りうがって書いた方が新聞は売れる。このため、新聞もラジオもテレビも殺人事件やスキャンダル、災害のことしか報道しない。こうした報道が染み込んでいるため、私たちは人間の本性は攻撃的で悪質なものだと信じてしまう(p165)。また、愛情は性的な欲望が伴い、執着の感情に支配されている(p72)。
けれども、乳児と母親との間で結ばれる慈愛には執着がない(p73)。子どもは母親とつながっていることを感じて自然に親しみを覚える。母親も子どもに責任を感じれば母乳が溢れ出す。子どもに憎しみを抱いていると母乳は出ない。そして、その母乳がなければ子どもは生き延びられない。このように人は最初の生の瞬間から慈悲に委ねられている(p74)。つまり、人間の本性の一番深いところには慈悲がある。それを人間は伸ばすことができるのである(p72)。
自然を保護する慈悲的チベット文化にこそ価値がある
チベット文化には二側面がある。伝統的な衣装、髪型、帽子等の文化社会的な側面と危機的な状況に応じても寛容の精神や謙虚さ、勇気を失わないという文化的な面である。この後者がチベット文化の真髄であって、それさえ失われなければ、前者は保存したり復元する必要は全くない。自然を尊重する心は仏教文化に不可欠な部分であり、生命を尊重し、動物にも分け隔てなく優しさを抱くことにこそ価値がある。
ボン教やイスラム教を信仰するチベット人もこうした価値を尊重している。そこで、仏教と仏教文化も区別される。そして、慈悲を尊ぶ仏教文化が大切なのである(p136)。
そのためには、自分が大いなる自然の一部にすぎないという事実を受け入れなければならない。そして、個人レベルが変われば、世界は変わる(p80)。
すべての命あるものは、例外なく、かつて自分の母であったし、将来にも母となりうるかもしれないと思い起こすことが重要である。この考え方を心に抱くための普遍的な祈りがあれば、果てしない解放感が心にもたらされる(p173)。すべての生き物を自分の母と思うことで慈悲心を育む場が作られる(p174)。慈悲心に尽くせば尽くすほど、心に占める恐怖は減っていく(p148)。
ブッダは究極の利己主義者である
他者に対する愛とは自分を忘れ、自分を投げ打って他者を助けることではない。けれども、他者を思えば思うほどますます幸せになっていく。そこで、本当の幸せを手に入れるためには慈悲心を育まなければならない。そして、覚醒者たちは、無限の愛を他人に施すことによって究極の至福を手に入れている。つまり、視野の狭い目先の利己主義は苦しかもたらさないが、菩薩やブッダは利己主義を完成させた人であると言える(p95)。
人間の本性の慈悲は修行しなければ発動しない
1990年にダライ・ラマ法王はベルリンにおいて「利己主義者であれ、同時に他者のことも考えよ」と語った(p96)。そして、一人一人が行動し、慈悲心を育み、環境や周囲の人たちや生き物を気づかっていけば、世界は変わるというダライ・ラマ法王の楽観的な世界観に対して、フェビアン氏は「普通の人間はもっと弱いし、大きな課題を目の前にすると怯んでしまう(p81)。システム全体が腐っている」と嘆く(p97)。
ダライ・ラマ 覚醒した心は、限りない利他心、菩提心すら生じることができる(p71)。真の慈悲心にも執着はなく、敵にすら愛情を感じることができる(p73)。そして、そうした仏性は生まれながらに備わっている。けれども、それは種として宿っているだけで覚醒はしていない(p155)。
欲望や怒りは理由もなく心に侵入してくるが、慈悲心や善なる心は、考察や訓練することで初めて働き始める。観察や考察によって、他人が自分と全く同じであり、自分が苦しみたくないと思えば、他の人もそうであることを知る。他者が苦しんでいるのを目にすれば、苦を直に感じて、慈悲心が大きくなる。感情が乱され強い感傷が引き起こされることもあるが、再び理性の力を借りて進んでそれを受け入れることができる。これが受け入れられれば、霊性はある種の澄み切った明るさを取り戻す(p212)。
競争には問題があるのか
フェビアン氏は、男性的な攻撃的な競争原理が権力を求め、平和に危機をもたらしていると憂える。そこで、法王に競争について問いかけた(p68)。
ダライ・ラマ 競争には二種類がある。チベットの伝統でも、「サンガやその中で最も徳の高い方に帰依します」と唱えるとき、覚醒者は見習うべき手本であり、自分よりも優れた存在であると考える。けれども、これは誰か他者を打ち負かそうという競争ではなく、自分を高めるために努力しようという競争である。こうして多くの人が菩薩に至る霊的ステップ、十の階梯を歩んでいる(p68)。したがって、他者を助ける意志を持ち、自分自身の無知と競争することは良いことである。けれども、自分が優位に立つために他者の失敗を望む競争もある(p69)。
人が幸せになるために権力も存在する
いまの社会が霊性を高める体験に欠け、マネーや権力に過大な評価を与えてしまっていることも問題である(p41)。お布施として真心から贈られたものであれば、お布施をしてくれた人を悲しませないため、僧侶は受け取らなければならない。けれども、それは自分の所有物ではなく、他の生きとし生けるもののために役立つものとするためにこれを使うのだと考えている(p33)。お布施として贈られたマネーを決して自分のために使うことがないように常に気をつけている(p35)。
真の権力とは他の人々や生き物を助け、役に立つためだけに存在する。多くの人が尊敬し、その意見に耳を傾ければ、多くの人のエネルギーが一人の人間に流れ込む。こうした権力は本物であり良いものである(p44)。現代では、権力は個人ではなく大衆に存在する。本物の志を持っている人に他の人々が力を委ねるのである(p45)。
銃の力や欺瞞と言ったよくない力で手に入れた権力は長続きしない。スターリンや毛沢東を尊敬している人は誰もいないが、マハトマ・ガンディーは今も何百万人の人々の心に刻まれている(p46)。そこで、ダライ・ラマ法王は、もし、自分が権力を持っていたら、本性が最大限に開花するような教育システムの基礎づくりに取り組むと語る(p102)。
死の恐怖を乗り越えるには
フェビアン氏は、西洋世界では死体を隠し、子どもにも親の死に目を見せず、死は病院で迎える。傷害者等、不愉快なものも特別な組織に隔離して見えないようにしている、と問いかける(p145)。
転生を信じない人にとっては、この一生がたった一つの生でしかない。信仰も信じるものもなければ死は恐ろしいものにならざるを得ない。けれども、ダライ・ラマは霊的な修行、転生への信仰、完全なる覚醒への探究心によって心の平安がもたらされていたと語る(p188)。

誕生と死は人間の行為が最も高い価値を持つ時である。人が人のためにできる一番素晴らしい奉仕は、誕生と死の手助けをすることである。死に向かう人々に対する最高のプレゼントは最大限の安らぎと静けさを与えてあげることである。このように考えれば介護にも全く違った大きな意味が見出せる(p188)。
西洋人は死を考えることを避けるが、根本的に間違っている。老いと死は生命そのものに密接に結びついた自然なプロセスである自然と因果を理解して、最後の時を思い、頻繁に死のことを考え、死を見つめて、それを飼い慣らしてしまった方がいい(p189)。
多くの人にとっての瞑想とは、想念を消し去った境地でリラックスすることを意味している。結果として、心の平安を得ることはできるし、それは、確かに健康には役立つ(p190)。けれども、本当に心の平安を得たいのであれば、分析的な瞑想の方が役立つ。例えば、死について瞑想し、それを人生に不可欠なものだとして受け入れる瞑想もできるし、一日、一日、死に近づいているのだと認識することもできる。結局は死は衣服を着替えるようなものだ、ということも理解する。これらの次元についての認識が深まるにつれて不安の種も消え失せていく(p191)。
四諦は解決策を述べている
仏教徒がただ苦について瞑想しなさい、と勧めることはない。苦には原因があり、それを滅することができることも知っていなければならない。この前提があって初めて苦についての瞑想も有効になる。四聖諦とは、苦の真理、苦の原因、苦を滅することへの真理、そして、苦を滅するに至る道に関する真理だが、苦の真理と苦の原因だけを瞑想していても全く効果は上がらない(p234)。
ダライ・ラマ一世は、死に際して弟子たちにこう言った。
「私はもう歳をとりすぎた。去るときがやってきたようだ」
そして、「天のどこかにいかれるのですか」と聞く弟子に対して、こう答えた。
「そんなところには行かないよ。私のたった一つの望みは、いまだに苦が多いこの世にもう一度生まれ変わって、もっと生きものを救うことだから」
この言葉をよく思い出し、なんと素晴らしいかと思う。だから、これを目標にしている(p237)。
このテーマについて瞑想すると心の奥底からとても強い力が湧いてくる。人生の目的は幸せであり、それを手にするための一番のよりどころは、他の生きものを、能力の限りを尽くして助けることにあると私は信じている。そうすれば、人生は本当に意味を持ったものになる(p236)。
私は毎日、シャンティディーヴァの言葉について瞑想し、自分の霊性をその方向に向けて形づけるよう努力している。慈悲について考えていると本物の感情が心の中に広がり、毎日、涙が溢れた。そうした気持ちは一日中止まることがなかった。この種の瞑想は人生に意味を与えてくれる。滑稽に思えるかもしれないが、それがどうしたというのであろうか(p239)。
(注)ランパは、本名はシリル・ヘンリー・ホプキンズ(Cyril Henry Hoskin)という生粋のイギリス人で、心霊現象やオカルト、とりわけ、チベットや中国の神秘思想に深い関心を抱いていた偽書とされている(2)。
【画像】
アントニオ・グラムシ氏の画像はこのサイトより
ヘンリー・ホプキンズ氏の画像はこのサイトより
カル・リンポチェの画像はこのサイトより
ソギャル・リンポチェの画像はこのサイトより
シャンティデーヴァの画像はこのサイトより
【引用文献】
ダライ・ラマ、ファビアン・ウァキ『ダライ・ラマ、生命と経済を語る』(2003)角川書店
(2)ウィキペディア