2017年08月21日

法王猊下の経済学H〜一人が慈悲化することから世界は変わる


Antonio−Gramsci.jpg 先般、一法庵の接心に参加した折、書棚にダライ・ラマ、ファビアン・ウァキ『ダライ・ラマ、生命と経済を語る』(2003)角川書店という本を見つけた。

「ほう。法王猊下もエコノミーについて語られていたのか」と想い、早速、アマゾンで注文した。この本の内容も紹介しておきたい。

はじめに

「認識においては徹底したペシミスト、行動においては途方もないオプチミス」

 これは、イタリアのマルクス主義思想家、アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci, 1891〜1937年)の言葉だが、明治大学の中沢新一特任教授(1950年〜)は、ダライ・ラマこそがまさにそれに該当すると語る。現代の諸問題をペシミストとして認識しながら、オプチミストとして立ち向かう姿勢をまったく崩さない、と驚嘆する(p7)

 そのダライ・ラマが経済とビジネスについて語っている書物が、2003年3月に出ている。インドのダラムサラに近い法王の住居でファビアン・ウァキ氏(Fabien Ouaki, 1958年〜)との対談がなされたのは1995年7月10〜16日で、今から22年も前のことになるが、その内容はまったく古びていない。

 ファビアン・ウァキ氏は、フランス中でチェーン店を経営する百貨店『タチ』の創業者の御曹司である。そして、斬新な多角的経営を展開しているバリバリのビジネスマンである(p7)

  Lobsang−Rampa.jpgけれども、幼い頃から心に満たされないものを感じて来たウァキ氏は(p8)、ロプサン・ランパ(Tuesday Lobsang Rampa, 1910〜1981年) の世界的ベストセラー、『第三の眼』を読むことでチベット仏教のことを知る。そして、第三の目を開いてオーラが見える人に憧れるようになった(p13)。ダライ・ラマ法王は、「残念ながら魔法の力なんて私は持ち合わせていないのですよ」(p53)「私は霊を直接見ることはできません。霊を見ることが出来る才能を持った者、「霊視者(ミクトンワ)」ではありませんから」と語っている(p218)。実は、ロプサン・ランパはペテン師、インチキスピ系教祖だった。

 その後、禅に興味を抱き(p111)、フランスを訪れたカル・リンポチェ(Kyabje Kalu Rinpoche, 1905〜1989年)と出会う(p15,p111)。そして、フランスを訪れたダライ・ラマの説法にふれて、自分が求め続けて来たものにやっと出会えた喜びに打ち震えるのである(p8)

動物の権利を考慮しない法体系は仏教の縁起思想にそぐわない

Fabien Ouaki.jpg ファビアン氏は、最初から、法王猊下に対して、利他心に基づく法制度を作ることが可能かと問いかける(p24)

ダライ・ラマ 全体主義体制が作り出す法体系、とりわけ、共産主義体制の法体系はただひとつの党派をひたすら守ろうとするものである。これは、人間の本性に反しているし、こうした体制そのものが誤っていると思う。法律とは、人間の創造性、自発性、能力を発揮させるための枠組みとしてあるべきである。

 民主主義国においては法制度はそうした機能を果たしている。とはいえ、そのほとんどは人間の権利しか扱っておらず、動物や生き物の権利についての配慮がない。そのため、まだ仏教の相互依存の思想と矛盾している(p25)。相互依存、縁起の法則を現代社会の法体系と合致させるためには、法の視野を広げ、自然環境の保護や動物の保護を含める必要がある(p26)

幸せに必要なものは、心の平安、健康、友人、最後がマネー

 フェビアン氏は、利益のために働く人は何かしらの罪悪感を感じている。それがマネーだと感じていた。そのユダヤ・キリスト教的から、相続したマネーを常に重荷のように感じていた(p58)。そこで、こう問いかけた。

Kalou-Rimpoche-Montpellier.jpg 現代社会ではマネーがあまりにも破壊的存在になっていて、もはやコントロールできなくなっている(p28)。その根には、物質的な繁栄を神の恩寵と見なす18世紀のプロテスタントの倫理観がある。もはやマネーが私たちの神になってしまっているのではないか(p29)。カル・リンポチェもいつもこう言っていた。

「金を持っていない人はいつも金のことを考えている。金を持っている人も絶えず金のことを考えている。どちらも心の平安を知らない」(p93)

ダライ・ラマ チベットにはお金を「クンガ・トンドップ」を呼ぶ。それは、「幸せをつくるもの」「みなが大好きなもの。成功をもたらすもの」という意味である(p41)

 現代ではマネーなしには生きることはできない。したがって、マネーは重要である。けれども、マネーがすべてであるとか、マネーさえあれば必要なものが手に入るという考え方は間違っている。この世の幸せを楽しむために最も優先すべきことは精神と心の平安を得ることである。二番目が健康、三番目が真実の友人、そして、最後に富がくる(p29)。心の平安を達成していれば、たとえ健康に恵まれなくても人生を生き抜いて幸せになることができる。したがって、心の平安こそが幸せを定義する唯一のものである。その基礎の上に健康が加われば、友人やマネーがなくても幸せを感じることができる。そして、心が平安で健康で、友人に恵まれていればマネーがなくても素晴らしい人生を送れる(p30)

 心が平安であれば健康にもなるし、穏やかな心を持つ人は、よい友人を引きつける。そして、心が平安な人はマネーを正しく使うこともできる(p29)。逆に不健康で心も平安でなく友人もいないが金持ちであるため幸せであるという人にはお目にかかったことはない(p30)

 金持ちは幸せであろうと誰もが考えている。けれども、実際に金銭を手にするとさらに多くを欲しくなり、決して満足できない(p93)。そこで、ダライ・ラマ法王は「あなた方は貧困からは解放されたが、お金の奴隷だ」と金持ちの友人たちに語る(p94)

経済成長と経済格差は不健全〜人間らしい経済を

資本主義よりも有効だとしてもマルクス主義には慈悲心が欠けていた

 フェビアン氏は、競争心の排除、富の分配が世界経済には組み込まれなければならないと考える(p89)。利益だけしか着目しない経済論理よりも、マルクス主義の再分配の理論の方が倫理的な配慮が含まれていたが、実際の問題解決の段階では、金持ちに対する憎しみが強くすぎ、慈悲心が足りなかったために問題があったと考える(p88)。企業活動にも利他主義は可能だろうか(p95)

ダライ・ラマ 利他主義と経済とを結びつけることは最も難しい。けれども、グローバルな場面と個人の場面の二つのレベルで考えなければならない。

 西洋では「毎年GNPが増えていけば経済は健全な状態にある」との考え方が最も普及しているが、こうした時代遅れの考え方はすぐにでも捨て去らなければならない。開発途上国と先進国との間では経済格差が広がっている(p31)。この経済格差は不健全なものであり、なくしていかなければならない(p38)。それのみならず、国内においても受け入れ難いほどの経済格差が広がっている(p89)。先進国の中でも貧困がある(p32)。最悪の場合、それは、取り返しがつかない事態にはまり込む。ましな場合であっても、多くの人に苦を与えながら経済システムそのものが危機を迎えることになる。そこで、経済をもっと人間らしくすることが重要である(p89)

必要なだけで満足して生きれば失業も怖くない

 けれども、開発途上国の生活水準が先進国が享受しているレベルにまであがれば地球の資源はどうなってしまうのであろうか(p38)。近視眼的な経済がもたらす遺伝子の研究もとんでもないことである(p92)

 先進国も本当に必要な分だけで満足すべきである(p39)。もし、本当に必要なものだけで満足するという原則に従って生きることができれば、誰もが不安や苦なしにゆったりと生きられよう(p107)。満足できる感情があれば、失業率の高さも否定的に捉えなくても良い(p108)。チベット人は失業と似たような状況でも呑気で気を揉んだりしない。失業者を社会的に劣った価値のない存在だと考える社会は西洋人が作り出した(p106)

正しい知性が発揮されれば人間は平和な世界を実現できる

 次に個人レベルである。私は、自分が楽観主義者だと思っている(p65)。私は非武装の世界を夢見る単純な人間だが、世界平和は必ず達成できると思っている(p56)。それは、人間の本性は優しく慈悲に満ちたものであり、正しく導かれた知性は必ずよい解決法を見出せると信じているからである(p65)

 どの生き物も、幸せを求めて苦を避けようと努力している。トラは他の動物に苦を与えるが、それは空腹な時だけであり、その行動の及ぼす範囲は限られている(p70)。ネコも責任を持って自分の子どもを守り育てる。そして、ネコやイヌが嫉妬したりすることは誰も目にしない。つまり、動物の破壊的感情は限られている(p71)。動物たちは憲法も宗教も持たないが、誠実さとごまかしをちゃんと見分ける力を持っている(p79)

 一方、人間の行動が多くの苦を生み出し、とてつもなく大きな悲劇を産み出している(p70)。知性が破壊的な力を制御できず、とめどもなく肥大化していくと恐怖や疑念、憎悪といった心の問題が生じる(p147)。しかし、だからと言って、人間の知性を押さえ込もうとすることは誤りである(p72)。例えば、不安を和らげようと抗鬱剤プロザックを用いて知性の働きを抑圧するのはこの上なくナンセンスである。知性の力によって暴力や憎しみをできるだけ和らげることが望ましい(p147)

人間の本性は慈悲的存在である

 けれども、現実の知性は自然な心の働きを抑えるものになってしまっている(p101)。上述したような問題に取り組むためには、人間の本性をもっと伸ばしていかなければならない(p98)。そこで、知性を損なうことなく、恐怖や不安を減らす方法の一つが、利他的な慈悲である(p148)

 私たちの人間性の一部はセンセーショナリズムに惹かれてしまう。そのため、1000人のお年寄りが手厚いケアを受けたとか、何百万もの子どもたちが親に愛されて暮らしているというリポートよりも、ぞっとする殺人事件を微に入り細に入りうがって書いた方が新聞は売れる。このため、新聞もラジオもテレビも殺人事件やスキャンダル、災害のことしか報道しない。こうした報道が染み込んでいるため、私たちは人間の本性は攻撃的で悪質なものだと信じてしまう(p165)。また、愛情は性的な欲望が伴い、執着の感情に支配されている(p72)

 けれども、乳児と母親との間で結ばれる慈愛には執着がない(p73)。子どもは母親とつながっていることを感じて自然に親しみを覚える。母親も子どもに責任を感じれば母乳が溢れ出す。子どもに憎しみを抱いていると母乳は出ない。そして、その母乳がなければ子どもは生き延びられない。このように人は最初の生の瞬間から慈悲に委ねられている(p74)。つまり、人間の本性の一番深いところには慈悲がある。それを人間は伸ばすことができるのである(p72)

自然を保護する慈悲的チベット文化にこそ価値がある

 チベット文化には二側面がある。伝統的な衣装、髪型、帽子等の文化社会的な側面と危機的な状況に応じても寛容の精神や謙虚さ、勇気を失わないという文化的な面である。この後者がチベット文化の真髄であって、それさえ失われなければ、前者は保存したり復元する必要は全くない。自然を尊重する心は仏教文化に不可欠な部分であり、生命を尊重し、動物にも分け隔てなく優しさを抱くことにこそ価値がある。

 ボン教やイスラム教を信仰するチベット人もこうした価値を尊重している。そこで、仏教と仏教文化も区別される。そして、慈悲を尊ぶ仏教文化が大切なのである(p136)

 そのためには、自分が大いなる自然の一部にすぎないという事実を受け入れなければならない。そして、個人レベルが変われば、世界は変わる(p80)

 すべての命あるものは、例外なく、かつて自分の母であったし、将来にも母となりうるかもしれないと思い起こすことが重要である。この考え方を心に抱くための普遍的な祈りがあれば、果てしない解放感が心にもたらされる(p173)。すべての生き物を自分の母と思うことで慈悲心を育む場が作られる(p174)。慈悲心に尽くせば尽くすほど、心に占める恐怖は減っていく(p148)

ブッダは究極の利己主義者である

 他者に対する愛とは自分を忘れ、自分を投げ打って他者を助けることではない。けれども、他者を思えば思うほどますます幸せになっていく。そこで、本当の幸せを手に入れるためには慈悲心を育まなければならない。そして、覚醒者たちは、無限の愛を他人に施すことによって究極の至福を手に入れている。つまり、視野の狭い目先の利己主義は苦しかもたらさないが、菩薩やブッダは利己主義を完成させた人であると言える(p95)

人間の本性の慈悲は修行しなければ発動しない

 1990年にダライ・ラマ法王はベルリンにおいて「利己主義者であれ、同時に他者のことも考えよ」と語った(p96)。そして、一人一人が行動し、慈悲心を育み、環境や周囲の人たちや生き物を気づかっていけば、世界は変わるというダライ・ラマ法王の楽観的な世界観に対して、フェビアン氏は「普通の人間はもっと弱いし、大きな課題を目の前にすると怯んでしまう(p81)。システム全体が腐っている」と嘆く(p97)

ダライ・ラマ 覚醒した心は、限りない利他心、菩提心すら生じることができる(p71)。真の慈悲心にも執着はなく、敵にすら愛情を感じることができる(p73)。そして、そうした仏性は生まれながらに備わっている。けれども、それは種として宿っているだけで覚醒はしていない(p155)

 欲望や怒りは理由もなく心に侵入してくるが、慈悲心や善なる心は、考察や訓練することで初めて働き始める。観察や考察によって、他人が自分と全く同じであり、自分が苦しみたくないと思えば、他の人もそうであることを知る。他者が苦しんでいるのを目にすれば、苦を直に感じて、慈悲心が大きくなる。感情が乱され強い感傷が引き起こされることもあるが、再び理性の力を借りて進んでそれを受け入れることができる。これが受け入れられれば、霊性はある種の澄み切った明るさを取り戻す(p212)

競争には問題があるのか

フェビアン氏は、男性的な攻撃的な競争原理が権力を求め、平和に危機をもたらしていると憂える。そこで、法王に競争について問いかけた(p68)

ダライ・ラマ 競争には二種類がある。チベットの伝統でも、「サンガやその中で最も徳の高い方に帰依します」と唱えるとき、覚醒者は見習うべき手本であり、自分よりも優れた存在であると考える。けれども、これは誰か他者を打ち負かそうという競争ではなく、自分を高めるために努力しようという競争である。こうして多くの人が菩薩に至る霊的ステップ、十の階梯を歩んでいる(p68)。したがって、他者を助ける意志を持ち、自分自身の無知と競争することは良いことである。けれども、自分が優位に立つために他者の失敗を望む競争もある(p69)

人が幸せになるために権力も存在する

 いまの社会が霊性を高める体験に欠け、マネーや権力に過大な評価を与えてしまっていることも問題である(p41)。お布施として真心から贈られたものであれば、お布施をしてくれた人を悲しませないため、僧侶は受け取らなければならない。けれども、それは自分の所有物ではなく、他の生きとし生けるもののために役立つものとするためにこれを使うのだと考えている(p33)。お布施として贈られたマネーを決して自分のために使うことがないように常に気をつけている(p35)

 真の権力とは他の人々や生き物を助け、役に立つためだけに存在する。多くの人が尊敬し、その意見に耳を傾ければ、多くの人のエネルギーが一人の人間に流れ込む。こうした権力は本物であり良いものである(p44)。現代では、権力は個人ではなく大衆に存在する。本物の志を持っている人に他の人々が力を委ねるのである(p45)

 銃の力や欺瞞と言ったよくない力で手に入れた権力は長続きしない。スターリンや毛沢東を尊敬している人は誰もいないが、マハトマ・ガンディーは今も何百万人の人々の心に刻まれている(p46)。そこで、ダライ・ラマ法王は、もし、自分が権力を持っていたら、本性が最大限に開花するような教育システムの基礎づくりに取り組むと語る(p102)

死の恐怖を乗り越えるには

 フェビアン氏は、西洋世界では死体を隠し、子どもにも親の死に目を見せず、死は病院で迎える。傷害者等、不愉快なものも特別な組織に隔離して見えないようにしている、と問いかける(p145)。

 転生を信じない人にとっては、この一生がたった一つの生でしかない。信仰も信じるものもなければ死は恐ろしいものにならざるを得ない。けれども、ダライ・ラマは霊的な修行、転生への信仰、完全なる覚醒への探究心によって心の平安がもたらされていたと語る(p188)

Sogyal-Rinpoche.jpgダライ・ラマ ソギャル・リンポチェ(Sogyal Rinpoche,1947年〜)の『チベットの生と死の書』に寄れば、死にゆく人は、近しい人たちが側にいて、心から悲しみ、共にこの苦しい時を受け入れようとしていることを感じ取っている。不幸を目の前にしながら、自分が独りではないと感じている(p186)

 誕生と死は人間の行為が最も高い価値を持つ時である。人が人のためにできる一番素晴らしい奉仕は、誕生と死の手助けをすることである。死に向かう人々に対する最高のプレゼントは最大限の安らぎと静けさを与えてあげることである。このように考えれば介護にも全く違った大きな意味が見出せる(p188)

 西洋人は死を考えることを避けるが、根本的に間違っている。老いと死は生命そのものに密接に結びついた自然なプロセスである自然と因果を理解して、最後の時を思い、頻繁に死のことを考え、死を見つめて、それを飼い慣らしてしまった方がいい(p189)

 多くの人にとっての瞑想とは、想念を消し去った境地でリラックスすることを意味している。結果として、心の平安を得ることはできるし、それは、確かに健康には役立つ(p190)。けれども、本当に心の平安を得たいのであれば、分析的な瞑想の方が役立つ。例えば、死について瞑想し、それを人生に不可欠なものだとして受け入れる瞑想もできるし、一日、一日、死に近づいているのだと認識することもできる。結局は死は衣服を着替えるようなものだ、ということも理解する。これらの次元についての認識が深まるにつれて不安の種も消え失せていく(p191)

四諦は解決策を述べている

仏教徒がただ苦について瞑想しなさい、と勧めることはない。苦には原因があり、それを滅することができることも知っていなければならない。この前提があって初めて苦についての瞑想も有効になる。四聖諦とは、苦の真理、苦の原因、苦を滅することへの真理、そして、苦を滅するに至る道に関する真理だが、苦の真理と苦の原因だけを瞑想していても全く効果は上がらない(p234)

 ダライ・ラマ一世は、死に際して弟子たちにこう言った。

「私はもう歳をとりすぎた。去るときがやってきたようだ」

 そして、「天のどこかにいかれるのですか」と聞く弟子に対して、こう答えた。

「そんなところには行かないよ。私のたった一つの望みは、いまだに苦が多いこの世にもう一度生まれ変わって、もっと生きものを救うことだから」

 この言葉をよく思い出し、なんと素晴らしいかと思う。だから、これを目標にしている(p237)

Shantideva.jpg シャンティディーヴァの『菩提道の灯び』の一節には「この空間が続く限り、生きものが苦しみ続ける限り、彼らを助けるために私はここに止まり続けよう」とある。

 このテーマについて瞑想すると心の奥底からとても強い力が湧いてくる。人生の目的は幸せであり、それを手にするための一番のよりどころは、他の生きものを、能力の限りを尽くして助けることにあると私は信じている。そうすれば、人生は本当に意味を持ったものになる(p236)

 私は毎日、シャンティディーヴァの言葉について瞑想し、自分の霊性をその方向に向けて形づけるよう努力している。慈悲について考えていると本物の感情が心の中に広がり、毎日、涙が溢れた。そうした気持ちは一日中止まることがなかった。この種の瞑想は人生に意味を与えてくれる。滑稽に思えるかもしれないが、それがどうしたというのであろうか(p239)

(注)ランパは、本名はシリル・ヘンリー・ホプキンズ(Cyril Henry Hoskin)という生粋のイギリス人で、心霊現象やオカルト、とりわけ、チベットや中国の神秘思想に深い関心を抱いていた偽書とされている(2)

【画像】
アントニオ・グラムシ氏の画像はこのサイトより
ヘンリー・ホプキンズ氏の画像はこのサイトより
カル・リンポチェの画像はこのサイトより
ソギャル・リンポチェの画像はこのサイトより
シャンティデーヴァの画像はこのサイトより
【引用文献】
ダライ・ラマ、ファビアン・ウァキ『ダライ・ラマ、生命と経済を語る』(2003)角川書店
(2)ウィキペディア
posted by fidelcastro at 07:00| Comment(0) | ダライ・ラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月18日

法王猊下のエコノミーG〜一人の慈悲的実践によって世界は変る

人々は戦争を望んではいない

「私が1935年に生まれたときには、日中戦争が始まり、第二次世界大戦、中国の内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等が続きました。私の人生のほとんどで、私は、この地球上のどこかで起こっている戦争や暴力事件を目撃してきたのです」と、ダライ・ラマ法王は想起される。けれども、ダライ・ラマ法王は、全体としては、20世紀にはポジティブな変化が起きたと考える。

「第一次世界大戦中には、問題を解決する唯一の方法は力の行使にあると人々は考えていました。ですが、20世紀末には、多くの人たちが暴力にうんざりするようになり、平和のための強力な運動があったのです。以前には歴史上の敵だと互いに思っていた人々は、いま、お互いを隣人として見ています」

 確かに、過去には、国家が戦線を布告すれば国民は誇りを持ってその戦争に加わったが、今は違う。長期的な歴史展望からダライ・ラマ法王は力づけられる楽観主義を展開される(p193)

過去1万年で戦争による死因は激減してきた

 なるほど事態は深刻である。けれども、ダライ・ラマ法王は、いかによりよき世界がありえるのかについて、意識を向け直し、目先のことだけに捉われず、はるか先の将来世代のことも考慮した、生きとし生けるものすべてのための行動を呼びかける。

 目にする日々のニュースや記事は、戦争、殺人他、残虐な人間性を際立たせるものばかりである。こうした出来事だけに着目すれば、世界は、これまで以上に悪化しているように思える。けれども、より客観的な科学的データから見えてくるのはこれとは異なる物語で、ダライ・ラマ法王の楽観的な見解と合致する。

Ian-Morris.jpg 例えば、歴史家、スタンフォード大学のイアン・モリス(Ian Morris)教授は、考古学的なデータから、約1万年前の後期石器時代には、死因の10〜20%が部族内の暴力によるものであることを見出している。

「巨大な帝国は戦争によって築かれましたが、パラドックスではあるのですが、こうした帝国そのものが帝国領内での平和維持のための力になったのです」と語る。暴力を抑制した方が統治するうえではたやすい。このため死因が急落したとモリス教授は指摘する。

 確かに、20世紀の世界大戦では2億以上が死んだし、冷戦時代にも人類を絶滅させることができる核兵器での武装競争がなされた。今も、地球全体では各地で様々な紛争がくすぶっている。けれども、そのすべてを含めても、国連統計によれば、現在の世界中での非業による死因は0.7%にすぎない。1万年間で、非業な死を遂げる人の数は5〜10人に一人から、140人に一人へと減ったのだ。けれども、いまは史上、最も安全で危険が少ない時代といえる(p194)

 モリス教授は、これまで以上に相互につながった社会で暮らしつつ、文化的に進化することで、平和を維持する能力をそこに見出す(p195)

長期的に見れば事態はよくなっている

 1996年に、私は、幼児期からよく存じ上げていた王太后(Queen Mother,1900〜2002年)とお会いしました」と、ダライ・ラマ法王は語る。

Queen-Elizabeth.jpg「王太后は20世紀のほぼすべてを目にしてこられたことから、私は事態が良くなっていると感じるかどうかを尋ねてみました。すると、王太后は躊躇なく「そうです」と答えられたのです。例えば、王太后は、自分が若い頃には、誰も人権や自決権について今のようには話していなかった、と語られました」。

 イタリア南部の貧しい町、マテラ(Matera)は、以前は国の核廃棄物の処分場として適しているとされてきた。ダライ・ラマの友人、ノーベル賞を受賞したベティ・ウィリアムズ(Betty Williams,1943年〜)さんは、これに対して、地域経済を支援するため、町を難民の子どもたちの孤児院の地とする計画を思いついた。

 ウィリアムズさんはこう語る。

「このプロジェクトは平和のための種です。私たちはこうした種を他の地域にも播く必要があります。これは、より幸せな世界を築くためのやり方の始まりなのです」(p195)

 この50年で起きたことと自分が実践してきたこととの間にまったくつながりが見出せない。だから、落胆した。そうダライ・ラマ法王に語るウィリアムズさんに対して、法王は長期的な視点を取ることを薦められた(p195)

 ドイツの哲学者、量子物理学、故カール・フリードリヒ・フォン・ワイツゼッカー(Carl Friedrich von Weizsacker, 1912〜2007年)は、ダライ・ラマ法王の家庭教師だったが、彼から聴いたことを語った。

 ワイツゼッカーが生きた時代には、ドイツ人とフランス人は恨み重なる敵同士であり、互いに殺しあっていた。けれども、20、30年後には、シャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle, 1890〜1970年)大統領は、ドイツのコンラート・アデナウアー(Konrad Adenauer, 1876〜1967年)首相と親友となっており、チームを組み、後のEU創設につながる概念を支えた。

Betty-Williams.jpg「20世紀初期には、こうしたことは考えられませんでした。ですが、20世紀半ばにはそれが起こりました。不可能なことも可能になります。ですから、あなたが努力をすれば、現在では、不可能に思えることも変わることができるのです」と、ダライ・ラマ法王は述べる。

 例えば、18世紀には、世界の大半の地域では、動物、子ども、精神異常者、貧しき者、債務者、囚人、奴隷は非常な扱いを受けてきた。19世紀末には、こうした虐待は珍しいものとなり、20世紀末には、ほとんどの地域でこうした状況は嘆かわしいものと見なされるようになった。

 健康、教育、格差、安全に関するデータを見ても、19世紀と20世紀で大きな進展があったことがわかる。例えば、200年前には5人に1人しか識字力がなかったが、2000年現在では、世界の5人に4人が識字力を持つ。世界の平均寿命も、この130年で、30年以下から約70年にのびた。

 奴隷制度の非合法化、世界各地の深刻な災害に対する他国からの緊急援助、普遍的な教育。世界各地の知識ベースへの即アクセス。今日ではあたりまえとされていることの多くは、かつては幻想としか思えなかった、とダライ・ラマ法王は指摘する(p196)

 中国共産党による支配に抗議しているため、自ら命を犠牲にするチベット人は絶えないが、それでも、祖国チベットの未来についてダライ・ラマ法王が長期的には悲観しない理由のひとつはそのためである(p196)

 中国の共産党体制は、チベット文化や環境を破壊したのみならず、中国そのものの文化や環境も痛めつけてきた。それでも、これらを修復する日が来るときに、チベット人が提供できることは、調和し平和的に共存して生きることを含めた、その独自の文化的な展望と価値にある、とダライ・ラマ法王は言う。たとえ、中国政府がチベットを抑制していても、チベットの師の教えにしたがって、エリートや知識人を含めて、中国での4億人も仏教徒が増えていることを指摘する。ダライ・ラマ法王は、ノー天気な楽天家ではなく、現実を直視しつつ安心しないよう警告するが「それは、ポジティブなサインです」と語る(p197)

ネガティブな情報がニュースとなるから世界は悲惨に思えてくる

 ニュースでは日々ネガティブな情報が流される。けれども、こうしたニュースは日々の現実をどれだけ反映しているのであろうか。例えば、とある日になされた、親が子どもをなぜたり、困っていた誰かを助けたりといった親切な行為といじめや殺人といった残虐な行為の比率を考えてみよう(p197)。の年のいつの日であれ、親切な行為の方が残虐な行為よりも圧倒的に多い。日々、メディアから報道される冷酷で腐敗した人間の姿から、このことは想い描くことは難しいかもしれない。けれども、メディアは、世界でなされた良いことよりも悪いことに焦点をおく。間違っていることは、ニュースになるが、正しいことはニュースにはならない。その結果、世界であたりまえになされている数多くの良い行為よりも、数少ないネガティブな行為の方に私たちの認識をゆがめてしまう。「ニュースとなること」そのものが、レンズとして現実をゆがめ、親切なことと残虐なことの比率を逆転させてしまう(p199)

エネルギーを節約するため脳は悪いこと以外は認知しない

 ニュースのヘッドラインは、まさにまずいことを選びだすことを特徴とする。危険なことや修復が必要とされることに注意を払わせ、潜在的な脅威を知らせてくれる。けれども、集団レベルで、ニュースがしていることは、私たち自身のマインド内部で起きていることとパラレルである。私たち日々、入手している情報の圧倒的多数は決して認識されることはない。間違いや脅威を特徴とするごく少数の尖った問題だけが認識される。そうすれば、それに備え、解決策を見出し、状況を是正できるからである。

 人生におけるそうしたぐらつき(wobbles)に気づいて、準備することが、認知の主な機能であることを認知科学は教えてくれる。逆にいえば、物事が順調に進んでいれば、脳はそれに特定の注意を払う必要はない。そこで、脳はあたりまえの馴染んだことに対してはそれをルーチンの習慣として気つかずに無視する(p198)。それによって、脳はそのエネルギー源、グルコースを節約できるからである。けれども、それは、日々の私生活における膨大な量での「良いこと」を見えなくしてしまうのである(p199)

メディアは真実を語る必要があるし真実は深刻である

「メディアで責任がある人たちにはいつもこう話します。メディアの人たちも、ポジティブなことはあたりまえと認め、センセーショナルであったり、ネガティブなことだけに集中します。こうして、常にネガティブなことだけを耳にする人たちが、人間性は基本的にネガティブなものであって、人類の未来は悲しい運命にあるとのネガティブな見解をなぜ抱くようになるのかが目にできます。けれども、本当の分析をしてみれば、怒りの行為よりも慈悲の行為の方がはるかに多いのです」と、ダライ・ラマ法王は指摘する。

 「なればこそ、メディアはもっと良いことも報道して、良いニュースと悪いニュースとの比率を変えるべきだ」と言うのではないかと、ダニエル・コールマン博士は想定していたのだが、ダライ・ラマ法王がまったく別の処方箋を提案されるたことに仰天した。

「私は、メディアの方々に、この現代という時代では、皆さんには人々に認識をもたらす特別な義務があるとお話します。皆さんは悪いニュースを報告しなければならないのです」と明確にダライ・ラマは主張される。「ですが、同時に、この悪いことを変えたり克服できる可能性、人々に対して望も示さなければならないのです。さもなければ、膨大なネガティブなリポートに人々は圧倒され混乱してしまいます」(p199)

 ダライ・ラマ法王は、1973年にイングランドのさる教授と会話したことを覚えている。彼は、金持ちと貧しい人々との巨大な富の違い、とりわけ、工業化された「北側」と「南側」の差について語った。そして、十分な資源があるかどうかを懸念していた。今日、以前には貧しかった中国、インド、ブラジルといった国々の生活水準が急速に上昇し、今世紀末には人口が100億人に達するとの予測があり、資源枯渇の問題が迫ってきている。

「ですから、『これまではこうだったから、このままでもOKであろう』というのは間違っています、と言わなければなりません。資源がますます制限される中で、人口が増え、大災害も増え、地球温暖化も進んでいます。経済や主な資源をめぐってますます多くの問題や紛争の可能性があることはまったく確実なのです。それは、西洋の力、ロシアや中国の利己心によって突き動かされています。しかも、自然災害も増えています。いま自然は、世界がさらに多くの協力を必要としていることを私たちに告げているかのようです。私たちはこのことを深刻に考えなければなりません。いまのままのライフスタイルや発想法が続けられると当然のことのように思うことは、まったく間違っているのです(p200)」。

人々を勇気づける新たな発想を

 ダライ・ラマ法王は警告する。

「次の数十年はすこぶる困難な状況となります(p200)。ネガティブな面だけを告げられれば、人々は希望がないと感じます(p199)。ですから、私たちは新たなやり方で考えなければなりません」(p200)

 ダライ・ラマ法王は「我々には、変わる能力がある」という物語をマスコミが示すことを提案される。いまの状況を続けることよりも、それを防ぐためにすることができることがあることを示すこと。「それは、人々を動機づけます」(p200)

 ダライ・ラマ法王は、オーストラリアで、イスラエル型のドリップ灌漑を採択することで、不毛な大地が肥沃な土地に、10年間で200㎢の割合で変化していることを眼にした。

 ダライ・ラマ法王は「ソーラー電力で動く淡水化のプラントを建て、新たな潅漑を加えれば、急速に荒地は緑になることができます」と提唱された。けれども、広大な砂漠を緑することに法王の想像力はとどまらなかった。オーストラリア人たちにこう話したのである。「あなた方は貧しい移民をさらに受け入れることができます」

 ダライ・ラマ法王は、親しい友人、大司教デズモンド・ツツ(Desmond Tutu)から、アフリカの窮境の詳細も耳にしている。それが、貧困国を苦しめる債務を不道徳だとして、反対される理由のひとつである。アフリカ諸国や東欧経済が健全化すれば、ヨーロッパへの移民の危機も防げると法王は提唱される(p201)

 もちろん、こうしたラディカルな発想は必然的に抵抗されることを法王は理解している。新たな発想を受け入れるには、古い発想を捨てることを意味する。伝統的なヒンズー教の葬儀では、積んだ薪の上で火葬にされる事例を例にとり、これに反した友人、故ババ・アムテ(Baba Amte)の創造的な発想を誉め称える。アムテ氏は「棺なしに布で包んで遺体を埋め、そこで成長するために木を植えてほしい」との遺言によって新たな実践を始めたのである。

「肉体は最終的に土へと分解して木の養分となります。環境にダメージを与えず、火葬用の木を使わず、むしろ木を育てる。とても良いことです」。

 ダライ・ラマ法王は、こうした新たな思考を賞賛する(p201)。ポジティブな変化をなんとか引き起こすことができ、新たなやり方が基準になれば、例えば、奴隷制度や児童労働が非合法化されたように、新たなやり方はあたりまえのこととなります。私の身体は20世紀に属しています。ですが、マインドは21世紀にあろうと心がけています」と、ダライ・ラマ法王は言う(p202)

社会は個人によって変わる

 ダライ・ラマ法王が心に描く、より良い世界のためのマップは、ある特定の人物や職業によってなされるものではなく、私たち全員にかかっている。法王の見解によれば、人々が必要とする変化は、システマティックであり、政府が対処できないか、対処しないレベルで起きる。家族内であれ、友人たちの間であれ、ソーシャルメディアのうえであれ、組織内であれ、あるいは、社会全体としてであれ、私たち誰しもが何らかの形でリーダーであり、誰しもが、このネットワーク上で影響力を行使できる。一人ひとりが大きなエネルギーのオーケストラの中で役割を演じ、全員が一緒になればシフトができる(p204)

 社会はどのように変わるかについて考えてみてほしい。「社会」は、私たち誰しもの集合体である。ダライ・ラマ法王の見解では、社会も政府も会社は、個人の努力から切り離されて存在してはいない。「政府には、脳がなく、口がなく、まさにオフィスと紙があるだけなのです。ですから、会社のように政府も本当はまさに個人なのです」と法王は言う。

 ダライ・ラマ法王の変化の理論は、長続きするシステムの変化をもたらすうえで、統治者の力をさほど信頼せず、人々の力を重視する。トランジションは、政府の命令からでなく、より良き方向に向けて自分たち自身で、自発的に変化を始める人々からもたらされる(p205)

社会は実践しなければ変わらない

「時には、世界の問題があまりにも大きいと感じてしまいます。ですが、いったい誰がこれらの問題を生じさせたのでしょうか?。人類は個人の集団であることから、その変化は私たち一人一人からもたらされなければなりません。私自身も70億人の人間の1人です。ですから、私には道義的責任と貢献する機会があります。そして、それは、より建設的で破壊的な感情がより少ないというメンタルなレベルで始まり、友人たちとわかちあうことができます。変化はこうして広がっていきます。最終的には、各人が責任を持ちます。これがこの変化をもたらす唯一の方法です」

 とはいえ、ダライ・ラマ法王は、ただ以前よりも公正でより平和な世界を心に描いて望むだけでは、これは起こらないことを強調する。

「変化は、人々が行動をしてこそ起こるのです。希望的観測だけでは十分ではありません。もしも、私たちが何もできないと考えるならば、何も起こりません。世界はまさにいまと同じままです(p205)。もし、社会全体がまさに『私、私、私』について話すならば、私たちはリーダーを非難することができません。そして、我々がより慈悲的になるように要求する全体主義のリーダーには依存することができません。それは偽善です。不可能、不可能です」

「こうしたすべての変化は、本当のその価値を理解した人々によって、自発的にもたらされなければなりません」とダライ・ラマは言う。

「個人はとても重要です。ですが、本当の影響は大衆運動からもたらされます。たった一人では世界を変えることはできません。イエス・キリストはそれを試みて、完全に成功できませんでした。いまは民主主義の時代であるため、人々の声、集団の声によって違いは生じます」(p206)

カイロのスラムに職業訓練校を開く

 カイロの巨大なスラム、Ain El-Siraでは、約3万人が暮らす。ほとんどが間に合わせの仮住居で、合板を寄せ集めて作った木枠のような1部屋や2部屋に一家族が住んでいる。そして、住民たちは、低賃金で危険であっても、仕事を見つけようと精を出す。圧倒的多数は読み書きできない。さらに、住民たちの約半分は深刻な健康問題を抱えている。

 こうした悲惨なデータは、世界のどの都市でも貧困地域から収集できる。けれども、こうした研究が、カイロ・アメリカン大学(American University in Cairo)の一人の学生、サマル・ソルタン(Samar Soltan)さんの関心をひいた。彼女は、貧困地域の住民の3分の2は市場に適したスキルを手にしていない事実に気づいた。そこで、仕事を見つけても、生活賃金を得られないことが多かったのである(p202)

 ソルタンさんは、もう一人の学生、バサマ・ハッサン(Bassma Hassan)とチームを組み、スラムの女性たちのための職業訓練施設を立ち上げた。そして、Tシャツを縫うといった基本的なスキルでの働き方と同時に、エジプトの政治的な雰囲気では入手困難な基本的な労働権の知識も教えた。

 二人の女学生は、カイロ・アメリカン大学からダライ・ラマ・フェローズ(Dalai Lama Fellows)の倫理リーダーシップのプログラムに選ばれ、このプロジェクトのため、5000ドルを補助金を獲得した(p203)

ケニアでアグロエコロジーを試みる

 テトス・チルチル(Titus K. Chirchir)氏は、ケニヤのリフト・バレーの小さな村の自給農民の家に9人の子どもの1人として生まれた。村で暮らす17年間、Tiboiywoでは人口爆発によって、多くの人々が失業した土地なしの村民となり、自暴自棄で、新たな農地を切り開くため、近隣の森林を伐採し、川が枯れ周囲の緑が茶色になるのをテトスは、見てきた。

 短期的な利益を追った長期的な結果は、森林が伐採されることで、大地が乾燥化し生物種が損失し、農業収量が低下することだった。そして、これに対する政府の対応策は、人々を追いたてることであった。追いたてられた農民たちは、怒り、報復として森に放火した(p203)

 テトスは、その出身にもかかわらず、なんとかアマースト・カレッジ(Amherst College)に進学でき、Tiboiywoにダライ・ラマ・フェロー(Dalai Lama Fellow)として戻った。テトスは、農民たちに農産物とともに植林するアグロフォレストリーのやり方を教えた。樹木が十分な高さまで育てば、森林再生用に、広く農民たちに配布される。

 テトス氏は、アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)のフレーズ「世界は生きるためには危険な場所である。それは、人々が凶悪だからではなく、それに対して何もしない人々がいるためにである」を好んで引用する。氏はそこからインスピレーションを得た(p204)

 ダライ・ラマ法王は、このプロジェクトに自分の名を与えているが、こうした若いリーダーたちが、アフリカ、アラブや他の世界の貧しい人々が抱える問題解決のために努力することを望んでいる。そして、ただ慈悲を感じることから実践するよう訴えている。そして、彼らはそうしているのである

より良き世界のために種子を播く〜自分の世代で成果を求めるのは利己的

 ダライ・ラマ法王の世界展望は、私たちが今、知るものとはラディカルに異なり、不可能なまでに理想主義的に思える(p203)。とはいえ、全力を尽くしてみたとしても結果が見えなければ打ちのめされるのではないか、とダニエル・コールマン博士は聴いてみた。そして、ダライ・ラマ法王からの回答は、博士からすれば想定外のものだった。

「それは利己的です。その態度はまさしく慈悲の不足を意味します。私たちは長期的な視野で考えなければなりません。私の世代ではなく次世代の見解で行動する必要があります。おそらく20年、あるいは30年たってから、より良い社会を手にし始めることでしょう」

 社会を変えるには2、3世代が必要だと、ダライ・ラマ法王は言う(p206)

 たとえ果実を目にできないとしても、より良き世界のためには種子を植えなければならないというのがダライ・ラマ法王の見解なのである。そこで、地球環境の危機について市民啓発に努めることの難しさに環境科学者や活動家が落胆していると、法王はこうアドバイスされた。

「時には、皆様方は人々が重要な何かを始めて一生懸命に働くのを目にします。ですが、すぐに実現しなければ、人々は関心を失います。大きな重要な目標ほどすぐに達成することはほとんど不可能です。

 シフトは段階的である。

「けれども、誰かが始めなければなりません。私たちは人類について語っています。そして、時代とともに人類は変わることができるのです。たとえ、生きているうちに結果が実現しないとしても、私たちの世代はこうした重要な努力を始めなければなりません。それで良いのです。たとえ、今はそれが夢にすぎないとしても、より良き世界を形づくり始めることは私たちの責任です。そして、教育を通して、認識を通して、より若い世代をインスパイアしなければなりません」(p207)

「この世代には世界を再構築する義務があります。そして、私たちには数世紀先を考える能力があります。努力をすれば、達成可能であることがあれば、たとえ現在では絶望的に思えたとしても、決してあきらめないでください。熱意と喜びをもってポジティブなビジョンを提供してください。私は、結果を目にすることを期待してはいません。20年、30年、あるいはもっとかかるかもしれません。私は20代の学生たちに対しては『皆さんは結果を目にできるまで生きてはいないだろう』と語ります。ですが、たとえ努力の果実を決して眼にできないとしても、私たち誰もがいま行動しなければならないのです。今日の子どもたち、そして、彼らの子どもたちのため、私たちの世界を残してはならないのです」(p208)

【画像】
イアン・モリス教授の画像はこのサイトより
王太后ことエリザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアン(Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon)の画像はこのサイトより
ベティ・ウィリアムズさんの画像はこのサイトより
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2017年08月09日

法王猊下のエコノミーF〜正義としての慈悲

ダライ・ラマ法王は透明性を慈悲から求める

 Nelson-Mandela.jpgアパルトヘイトが終焉してまもなく、ダライ・ラマ法王は、ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela, 1918〜2013年)大統領と会った。マンデラは何年も投獄されていたのだが、自分を投獄した人たちに対して怒りをもっていないことに対して、ダライ・ラマ法王はいたく感動された。ダライ・ラマの旧友、デズモンド・ムピロ・ツツ(Desmond Mpilo Tutu, 1931年〜)大主教に率いられた南アフリカの真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)は、アパルトヘイトとそれに反対する闘いの日々で何千ものあらゆる種類の極悪非道な供述がなされた。とはいえ、この手続きが暴力という復讐の波を防いだことは疑いがない。支配者であった白人や彼らと戦った人々に対して、私的復讐を避けたマンデラの努力は、深い社会的な亀裂を癒やす大きな力となった(p83)

 アパルトヘイト側とそれに反対する抵抗者の双方の犯罪を完全にディスクローズすることは、ダライ・ラマ法王が賞賛する透明性のモデルにつながる。けれども、法王が透明性を求める背景にあるのは、意外なことに「慈悲」でなのである。ダライ・ラマ法王の慈悲は軟弱なものではない。米国の作家、アプトン・シンクレア(Upton Sinclair, 1878〜1968年)は、著作『ジャングル』において、シカゴの家畜屠場での移民労働者がおかれた過酷な労働環境や精肉業界の腐敗を暴いた。それが、1906年に純正食品・医薬品法を成立させることにつながった。法王が求めるディスクローズはこれに近い。

 ダライ・ラマ法王は、公的生活のあらゆる範囲に道義的な責任を求め、倫理的な過ちが生じるときにはどこであれ「汚い政治、汚いビジネス、汚い宗教、汚い科学」があると指摘される。銀行、企業、政治家、そして、宗教家の悪行・不正を嫌悪され、こうした不正なシステムを改革するためのイニシアティブをとられているが、ダニケル・コールマン博士は「これは、ダライ・ラマのビジョンで最も予想しえなかった慈悲の他に類のない適用である」との感想をもらす。活動する慈悲を例証する三原則について、法王は語る。『公正さ(fairness)』、『透明性(transparency)』そして、『アカウンタビリティ』である。

 これを欠けば腐敗や不正が続く(p84)。そして、透明性とアカウタビリティは相互依存する。透明性なくしてはアカウンタビリティはなく、アカウンタビリティなき透明性も効力がない(p85)

本物の慈悲は人々を救うために悪を正す

 ダライ・ラマ法王は自らを「簡素な僧侶(simple monk)」だと名乗る。全世界を旅する中でも、その暮らしはスパルタ的なもので、厳格なスケジュールにしたがって日々をすごされている。家は小さく、家具もろくにない小さな部屋で眠られる。また、インドの貧しい農民がはくサンダルを好まれ、着るTシャツもすり切れている。

Pope-francis.jpg 簡素な生活という意味で、ダライ・ラマ法王は、第266代ローマ教皇フランシス法王(Francesco,1936年〜)と特別な連帯を感じている。ローマ教皇も広々とした建物ではなく、バチカンにある簡素なゲストハウスの部屋で眠られ、エコノミー車を運転し、「法王」よりも、「ローマの司教(Bishop of Rome)」と呼ばれることを好む。貧しい者やおきざりにされたものを助けるために、もっと教会が活動するようローマ教皇は励まされるが、それはダライ・ラマ法王と同じである。ローマ教皇は、教会を「貧しき者による貧しき者のためのもの」と呼び、もっと簡素な生活を送ることによって「厳粛さの模範を示せ」と教会当局に呼びかけられたが、ダライ・ラマ法王は、そのことをとても喜ばれ、賞賛の手紙を書いた。「宗教指導者は簡素で謙虚な生き方を実践することで、自分自身の教えに従わなければならない」とダライ・ラマ法王は語る。

Franz-Peter_Tebartz-van_Elst.jpg また、ローマ教皇は、ドイツ西部リンブルク司教区のフランツ・ペーター・テバルツ・ファン・エルスト司教(Franz-Peter Tebartz-van Elst,1959年〜)を左遷した。ブロンズ製の窓枠、3万ドルの浴槽、100万ドルの庭等、自宅に4300万ドルを費やす等、贅沢な生活が目に余ったからである。二番目の手紙で、ダライ・ラマ法王は「イエス・キリストの本当の教えを示した教皇の厳格な態度」を感謝感謝された(p85)。ドイツの司教の甘えた生活に対して「宗教家でさえ不正がありえます。倫理なき宗教の見通しは壊滅的です」と、ダライ・ラマ法王は言う。

「今日の世界では、多くの戦い、弱い者いじめ、不正行為があります。ですから、利他主義と慈悲がいっそう重要なのです。ですが、ただ慈悲的であるだけでは十分ではありえません。私たちは実践しなければなりません」」と、ダライ・ラマ法王は言う。

慈悲は、まさに人々を苦しみから救うのみならず、不正に対して反対し、人々の権利を守ることも意味すると、法王は言う。そうした慈悲は、非暴力的ではあるけれども、悪を正すものでありえるのである(p86)

破壊的な感情を伴わない建設的な怒り

 怒りは不平等な現状に対して抵抗するために立ち上がる助けになる。人々はまず怒りによって動く。そこで、ダライ・ラマ法王は、怒りは役立つと語り、ただ一方的に怒りを否定したりはしない。けれども、ダライ・ラマ法王は、怒りを種類によって区別し、不正に対して怒りをおぼえるとき、その怒りのポジティブな面を整理するよう促される。満ち溢れるエネルギーや決意。そのすべてが、不正に対して効果的な反応を産むからである(p86)。けれども、怒りに心が乗っ取られてしまえば、強迫観念に縛られ、エネルギーは動揺し、すべての自制心を失ってしまう。

「寛容さは、怒りや憎しみを持たないことを意味します。ですが、もし、別の人物が私たちに何か有害なことをして、それに対して私たちが何もしなければ、相手は有利となり、さらにネガティブな行為をするかもしれません。ですから、この状況を分析しなければなりません。そして、対抗策が必要であれば、怒ることなく、それをすることができます。そして、怒りに動機づけられなければ、その行為がもっと効果的となることを私たちは目にしています。私たちは、そのターゲットを直接攻撃できるのです」(p87)

罪を憎んで人を憎まず

「穏やかな心を保ってください。状況を調査してください。そして、対抗策を講じてください。でなければ、それは続くし増えましょう。慈悲から適切な対抗策を講じて下さい」

 そして、誰もが慈悲の対象となる。

「もし、あなたに能力があれば、あなたは不正を止めなければなりません。そして、たとえその人の行為が破壊的であるとしても、彼らの幸せを願う感覚を維持してください」

 不正に対して力強く反対行動をしながらも、怒りを建設的な方向に導くひとつの鍵は、相手への基本的な慈悲を保つことにある。つまり、その人とその人がやる行為とを区別することがポイントなのである。

「行為には反対する。けれどもその人は愛し、そのやり方を変えるためにあらゆる努力をしてください」

 反対行動をする際にダライ・ラマ法王はこう主張される。

「相手への慈悲をもってください。本当の許しの意味とは、人間に対しては怒りを向けず、かつ、彼らが行った行為を受け入れないことなのです」と法王は明確に説明する(p87)

 ダライ・ラマ法王とカリフォルニア大学サンフランシスコ校の人間相互関係研究所ポール・エクマン(Paul Ekman,1934年〜)所長は、怒りのような感情を管理する一助として、主体と行為を区別することに大きなポイントを見出す。まさにこの認識操作(cognitive maneuver)が重要なのである(p88)

 ダライ・ラマ法王は、怒りを含めて、破壊的な感情を減らすことが大切だと語る(p87)。例えば、被害を受ける商取引に巻き込まれれば、自分をそこに引き込んだ相手を嫌い、その相手のことを思い出す度に怒りが生じる。けれども、日々、瞑想を実践していれば、心が鎮まり、相手の行為と相手そのものを切り離せることに気づく。そして、誰かのネガティブな行為に対処する必要があるときには、破壊的な感情に突き動かされなければ、より効果的となりうるのである(p88)

マハトマ・ガンディが師匠

 ダライ・ラマ法王がマハトマ・ガンディのことを初めて耳にしたのは、まだ少年であったときだった。それ以来、ダライ・ラマ法王はずっとガンディの影響を受けてきた。法王はガンディと会うことはなかったが、「個人的な師匠だ」と呼ばれる。

ガンディの人生の多くの面は、人間のネガティブな面を抑え、ポジティブなポテンシャルを最高に引き出す個人的な努力から始まっている。また、別の面は、ダライ・ラマ法王の個人的なライフスタイルでもある簡素さに見られる。そして、三番目が、貧しき者や抑圧された者への関心である。そして、ガンディと同じく、ダライ・ラマ法王も、非暴力や慈悲を磨くよう日々実践されている。

「それは神聖なものだからではなく、実益があるからです」(p88)

ガンディは透明性を求めていた

 ダライ・ラマ法王は、透明性と誠実さをガンディが重視したことを評価する。

「ガンディの非暴力の実践は、まったく真実の力に依存していました」

 そして、この力は、困難や障害に直面する時に現れる。

「あなたの態度は、正直で、誠実で、本物で、利他的なものでなければなりません。利他的であることで落胆する理由はありません。逆に、偽善的であったり、口にすることと別のことをしているならば、内なる存在が弱まり、挑戦に対峙する力を持てないかもしれません。完全に正直であれば、真実を話させます。そして、透明性は間違った動機への抑止力の働きをします。もちろん、よく見えるのは見せかけだけで、水面下では別のことが起きているかもしれません。ですから、表舞台だけでなく、その舞台裏まで嗅ぎ分ける「鼻」が必要とされているのです。メディアは、センセーショナルにあおらずに、本当に起きていることを公平に報告しなければなりません。少なくとも自由主義国においては、メディアには大切な役割があり、それが大きな違いを産み出すことができます。けれども、検閲がある国では問題は別で、しばらくは困難な状況にあります」

 ダライ・ラマ法王は、アフリカやラテンアメリカを訪問し、貧しい人々の絶望や腐敗を目撃し、広がる貧富の格差を「全く不道徳だ!。腐敗はまるでガンのようです」と語る。

 腐敗は、貧困を産み出し、それを保つ。例えば、貧しき人々を助けるための寄付金が、金持ちの懐に入ることで終わることはあまりにも多い(p89)

近代教育が金の亡者のエゴイストを産み出している

 ダライ・ラマ法王は、公的生活の至る所での腐敗に取り組むことを唱道される(p89)。腐敗の根の根本原因を法王は、他者の幸せに対する懸念がない極端なエゴイズムにあると見なす。そして法王の見解では、この問題は近代教育から始まる。近代教育は、道徳的な原則よりもむしろ私的な成功やマネーについて考えるよう条件づける。その仮定は「あなたには金と権力があればすべてがOKである」というものである。「実業家やリーダーはこのシステムの産物なのです。そして、彼らはこのように考えるのです」とダライ・ラマ法王は語る。

 ダライ・ラマン法王は、インドでの20l0年のコモンウェルスゲームズ(Commonwealth Games)を腐敗の一例としてあげる。コモンウェルスゲームズはイギリス連邦に属する国や地域が参加して4年ごとに開催する総合競技大会だが、このゲームは国内メディアでも強烈に批判された。

 問題は、マネーをポケットに入れる契約者から、危険な労働条件で働かされる貧しい人々から、児童労働に及び、多くの国民が貧困で暮らしている中で、なぜ、数10億をもスポーツイベントに費やさなければならないのかという疑問もあった。

「このようにたくさんのスキャンダルがインドには存在します。あまりにも無頓着で無関心です。ですから、必要とされていることは、厳しく誠実で、透明性のあるリーダーシップなのです。それによって、私は、インドが変わることができると思います」(p90)

 ダニエル・コールマン博士はダライ・ラマ法王のこのコメントから、グローバルなイギリスの国際金融グループ、バークレイズ(Barclays PLC)が実施していた「ダーク・プール(dark pool)=私設取引システム」のことを想起した。ダークプールとは大口投資家が市場を介さずに秘密裏に行う取引のことだが、これを通じて銀行は最も利益をあげられる。コンピュータを駆使した超高速取引(HFT)はミリ秒単位で株式市場の取引を実施することができる。投資家の大口売買が市場でオープンにされれば、その情報はすぐに暴露される。ニューヨーク州のシュナイダーマン司法長官は、バークレイズが不当に利益をあげていたとしてこれを訴訟した(p90)

 2008年の金融危機以来、明るみにされた金融セクターのグレイゾーンの多くは非常に不透明である。銀行業務を専門とするある法学の教授は、ダーク・プールについてこう語る。

「ここでの教訓はとてもシンプルです。悪時は闇で起こるのです。銀行は顧客に嘘をついて、彼らを保護していなかったのです」

 ダライ・ラマ法王は、2008年の金融危機は、まさに道義的な責任の不足やエスカレートする投機への欲望だけでなく、腐敗も明らかにしたとの見解を述べる。もちろん、金融業界文化の倫理的な欠陥を疑問視するのは法王だけではない。非倫理的で、非合法な事業に対して「ギャング資本主義」という言葉すら用いられている。とはいえ、天然資源の略奪であれ、政治家の汚職であれ、こうした悪行はただ闇の中でだけ実施できる。そこで、ダライ・ラマ法王はビジネスのグループに対してこうアドバイスをされる。

「透明にしてください。透明性は信頼をもたらします」(p95)

あたりまえの価値観に浸っていると見えない

 数十年も認識されているにもかかわらず、いまだに世界の多くの場所では女性や少数民族には賃金格差がある。カースト制度の残渣のような差別が残されている。不平等は社会構造に組み入れられ、悪事が日常のルーチンに溶け込んでいるため、誰も感じないようになっている。

 例えば、欠陥車であるために事故が起きて人が死んでいるとの内部リポートがありながら、自動車メーカーが「問題はない」と言って消費者を安心させることもよくあるシナリオである(p95)。そして、多くの死者が出た後に、会社は最終的に問題を認めるのである。

Frankfurter-Felix.jpg 自然が破壊されるのも、商工業活動の意図せぬ副作用である。官僚機構も暗黙のうちに不正や搾取を進めてしまう。米国の最高裁判司法省のフェリックス・フランクファーター(Felix Frankfurter, 1882〜1965年)は「日光は最高の殺菌剤だ」と述べたが、「日光」があまりに弱すぎれば、重要な意志決定力を持つ会社経営陣や政治家といったエリート集団だけを照らす。宗教家、メディア、作家も、私たちの文化信条や価値観を形づくる基準に多くの注意を払わない(p96)

 ニューヨーク市にある大学に通っていた中国出身の学生たちとダライ・ラマ法王が会ったとき、「腐敗に取り組む努力において、私たちは、習近平(Xí Jìnpíng, 1953年〜)主席を支持する必要があります」と語られた。

「全く大胆です、本当にワンダフルです。けれども、彼は大衆の支持を必要とします」

 そして、1950年代の北京での毛沢東(Mao Tse-tung, 1893〜1976年)との会談を想起し「ブッダはカースト制度にまったく反対であったことから、毛沢東でさえも、ブッダのことを社会正義のための革命的戦いと記述したのです」と語る(p91)

John-Ogbu.jpg このことは、数年前に、ナイジェリア出身の人類学者、カリフォルニア大学バークレー校のジョン・オグブ(John Ogbu, 1939〜2003年)教授と会ったことを、ダニエル・コールマン博士に想い出させた。オグブ教授は、中部カリフォルニアの小都市でフィールドワークを行い、そこに事実上のカースト制度があることを明らかにしたのである。

 そのことを知り、コールマン博士はショックを受けた。白人の中流階級とエスニックのマイノリティとの居住区は区別され、学校も「カースト制度」のラインに沿って区別されていた。オグブ教授からそのことを指摘されると、コールマン博士はそれが正しいと思ったが、その時までは、その紛れもない事実は、視野外にあったのである。

 社会的格差は、簡単に日常生活の中に溶け込んでしまう。口にされない文化的な基準や信条によって忘れさられている。

マイノリティや女性の権利が行動を通じて認められたように、偏見によって当然のこととされる社会的な不正は透明性によって「見える化」できる。逆に、不可視化されてしまうと、とりわけ、力ある者たちの無関心を産み出す。そして、こうした無関心が、目に見えないケアへの障害となることが研究からわかっている(p90)

金持ちほど他人に対して冷酷

Dacher-Keltner.jpg 心理学者、カリフォルニア大学バークレー校のダッチャー・ケルトナー(Dacher Keltner)教授の一連の実験的な研究によれば、社会的なステータスが高い人ほど、社会的な地位が低い相手に対してさほど注意を支払わない。そして、逆も真実である。例えば、まったく赤の他人の2人をペアにする実験では、5分のセッションでは、金持ちほどアイ・コンタクトやうなずいたり、笑ったりはしない。このすべては人とかかわるときの尺度なのである。そして、見知らぬ同士が人生の中でも最も悲惨な瞬間を打ち明けあったときも、パワーを持つ人ほど相手に対して無関心だった。そして、貧しい人たちほど相手に対して同情することがわかったのである(p90)

 ケルトナー教授の研究によれば、相手の表情から相手の感情を読み取る能力でも、社会的地位が高い人ほど相手に注意を払わず、相手の会話をさえぎって自分が言いたいことを一方的に述べたりする。

 これにはその人がおかれた事情もある。例えば、隣人に3才児の面倒を見てもらう代金を稼ぐため、二つの仕事を掛け持ちしているシングルマザーのように貧しい状況にある人は、常に人に頼る必要がある。そこで、いつか助けを求めることになる人たちとの人間関係を大切にしている。一方、裕福な人たちは、保育所のサービスであれ、家事手伝いのアルバイトであれ、必要なモノを簡単に金で解決できる。ケルトナー教授は、これが、金持ちほど他人の苦しみに無関心で、相手のニーズを無視できる理由のひとつだと示唆する(p91)

カルマの信仰は慈悲を無為にする

 ケルトナー教授の見解をコールマン博士がダライ・ラマ法王に告げると、法王はさらに掘り下げたコメントを加えられた。

「カースト制や「選ばれた人」の信仰のように、ある宗教の信者たちはより高い秩序によって人間の運命が決定されていると信じています。ですから、彼らは窮境に共感したり、援助の手を差し出す気がありません。

「神は、そのように、彼らをつくった」との考えによって、恵まれない人々への慈悲は抵当流れになってしまうのです」

 宗教が冷酷さの言い訳になる。「それが、宗教が問題を増やしてしまうやり方なのです」とダライ・ラマ法王は述べた。「神の運命やカルマによるものだとして他者のニーズを退ける人たちは完全に間違っています」とダライ・ラマ法王は付け加えられる(p92)

「『平等、平等、平等』と言葉では1000回も繰り返すことができます。ですが、実際には、他の力によって乗っ取られています」と、ダライ・ラマ法王は言われる。

 共感(empathy)がほとんどなき所、ビジネス業界や政界で権力を手にした人々は、自分たちがどれほど無力な人々に影響を及ぼすかへの理解をまったく欠いた決定をしてしまう。富める者と貧しい者、あるいは、恵まれた者と恵まれなき者との格差は、偏見によって見えなくなり、あたりまえのこととして問題視されなくなってしまう。とりわけ、権力の恩恵を享受するエリート集団からすれば、弱い人々が力にアクセスできないのは自己責任であって当然のこととされてしまう(p93)

弱き人々を心に想い描くことで共感力を育める

 ジェンダー、階級、富等で、権力の中心から最もはずれた場所にいる人々をどのように扱うのか。そのやり方によって慈悲的な社会の特色は見出せる。

 マハトマ・ガンディは、無力な人々に対するエリートたちの無関心に不快感を抱いていた。1948年の死後に見つかったひとつのメモは「あなたが目にした最も貧しく最も弱い人の顔を思い出し、あなたが考えることがその人に役立つかどうかを自分自身に問いかけてください」というものがある。

 特定の人の顔を心に想い描くというガンディのアドバイスは、ケルトナー教授の発見から照らせば、とりわけ意味がある。困窮する人の姿をイメージすることは、無関心を退け、相手に感情移入するステップとなる。そして、もし、相手に共感さえできれば、何が必要とされているのかを感じることができ、それが行動につながるからである(p94)

構造的な不平等は甘受せず抵抗することが必要である

 ダライ・ラマ法王は、その行動の動機づけとしてマハドマ・ガンディ、ネルソン・マンデラ、チェコのバーツラフ・ハベル(Vaclav Havel, 1936〜2011年)大統領、そして、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr., 1929〜1968年)といった人々を、慈悲があふれた活動家としてあげられる(p94)。行動主義と非暴力とを組合わせることによって、彼らは弱くはならず、むしろ、さらに大きな勇気や決心を持つことにつながったとダライ・ラマ法王は語る。

「非暴力は、ただ不公正を受け身で受け入れなければならないことを意味しません」と、ダライ・ラマ法王はニューデリーで聴衆に向けて語った。

「私たちは、権利のために戦わなければなりません。私たちは、不正には反対しなければなりません。なぜならば、そうしないことは暴力の形だあるからです。ガンディー師は非暴力を熱列に進めました。けれども、それは、ガンディが現状を満足してただ受け入れることを意味しませんでした。ガンディは抵抗しました。ですが、ガンディは暴力をふるうことなくそうしたのです」

 真実を知ることが、自分たちの側に正義があることを知ることにつながり、穏やかで強くすると、ダライ・ラマ法王は付け加えられる。健全な議論が尽きる時に、人々は戦いや暴力へと向かう。そして、静けさと非暴力は力の徴候である(p95)

法律は特権階級のためのもので平等を担保しない

 公正さは、必ずしも法律に従うことを意味するわけではないと、ダライ・ラマ法王は指摘する。

 腐敗した政府や全体主義政府は、自分たちが法的ルールに従っていると口にすることで、自分たちの不正を擁護する。すなわち、法律は、誰しものための公正さ、正義を支えない。現実に、法律は支配階級の狭い利益だけを支えるやり方で実施されている。法律が公正であるためには、誰しもの権利を保護する必要がある(p95)

アカウンタビリティが果たされると人間は利他的でもありうる

 この本の収益の一部をどこに送るべきかについて、ダライ・ラマ法王に対して、ダニエル・コールマン博士が問いかけると、寄付団体ダライ・ラマ・トラストの名がでてきた。である(p96)。このトラストは、赤十字を介したフィリピンの台風被害の救済から、エモリー大学におけるチベット僧向けの科学カリキュラムの開発まで、広範なニーズに向けその資金を配布している。

 インドにおいては、イギリスと同じく「トラスト」という言葉は、慈善団体を示唆するが、米国においては「トラスト」は慈善団体ではなく、課税を逃れるため、私的目的で立ち上げられる資金を意味することをダライ・ラマ法王は理解されていなかった。そして、このことを耳にされると、ダライ・ラマ法王は、団体の目的をより明確化するため、その名称を『ダライ・ラマ慈善トラスト(Dalai Lama Charitable Trust)』へと変えることを提案された(p97)

Ernst-Fehr.jpg 経済システムにおける慈悲に関する「心と生命の会議」において、経済学者、チューリッヒ大学のエルンスト・フェール(Ernst Fehr,1956年〜)教授は、人間は貪欲であると同時にわかちあうことも可能であるとのゲームを用いた研究について語ると、ダライ・ラマ法王は熱心に聞かれ興味をいだかれた。フェール教授の研究によれば、最初は、ほとんどの人たちがわかちあう。けれども、他の誰かが貪欲であることが目にされると、利己的な行動が始める。人々が資源の利用に関して利己的であれば、ゆきわたるものはほとんどない。貪欲な者の責任があるとみなされるとき、不公平な結果があることが明白となり、協力は急上昇する。きれいな水のように、集団の構成員全員が無料で使えるように、人々が資源をわかちあうところでは、どこであれこれがもたらされる(p97)

コモンズの悲劇は慈悲によって防がれている

 カリフォルニア大学サンタバーバラ校のギャレット・ハーディン(Garret Hardin, 1915〜2003年)教授の「コモンズの悲劇」は、人間のわかちあう能力をさほど考慮していない。貪欲さと利己心が人々の動機づけであって、それは、フェアなわけまえ以上のものを人々が取ることにつながる、とハーディン教授は主張する。結果として、草地であれば、家畜が過放牧され、コモンズそのものが破壊される(p97)

 けれども、現実の歴史的な証拠を詳細に見てみれば、人々が協働し、個人的な貪欲さがもたらすダメージに対して歯止めをかけ、牧場だけでなく、森林、漁場、潅漑システムと資源をわかちあって管理してきたことが明らかになる(p98)

 自分自身だけなく、他者のことも気づかうことから、これは「慈悲」を表してもいる。

「誰しもが理解しなければならない最も大切なこととのひとつは、人間の幸せが相互依存しているということです。私たち自身の成功や幸せな未来は、他者のそれと大きく関連しています。ですから、他者を助けたり、他者の権利やニーズを考慮することは、まさに責任感の問題でなくて、自分自身の幸せがかかわることなのです」

 こう語るダライ・ラマ法王のビジョンは、長期的な補完戦略を切り開く。私たち、あるいは、将来世代が、利己心を減らし、破壊的な感情の管理法を学び、慈悲を育めば、社会に変化がもたらされる。透明性、公正さ、そして、アカウンタビリティを組み込んだシステムへとゆきつく。それが経済において意味することを考えてみるがいい(p98)

【画像】
ネルソン・マンデラ元大統領の画像はこのサイトより
第266代ローマ教皇フランシス法王の画像はこのサイトより
フランツ・ペーター・テバルツ・ファン・エルスト司教の画像はこのサイトより
ポール・エクマン所長の画像はこのサイトより
フェリックス・フランクファーター裁判官の画像はこのサイトより
ジョン・オグブ教授の画像はこのサイトより
ダッチャー・ケルトナー教授の画像はこのサイトより
エルンスト・フェール教授の写真はこのサイトより
ギャレット・ハーディン教授の画像はこのサイトより
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2017年08月07日

法王猊下のエコノミーE〜困っている人を助ける

ハンセン病患者は尊厳ある仕事を必要としている

Admired-By-Dalai-LamaS.jpg ダライ・ラマ法王は、ハンセン病患者の施設によく寄付をされてきた。とりわけ、法王がインスパイアされたのは、法王の友人であるババ・アムテ(Baba Amte, 1914〜2008年)氏が創立した西インドのアナンダワン(Anandwan)に設立したコミュニティである。ババ氏は若年からガンディに献身してきた。そして、ババ氏が考えたのは、ハンセン病の患者たちが必要としているものは慈善事業でなくて、尊厳ある仕事だということであった(p121)

 ババ氏自身が、消耗性漸進性脊髄退化(debilitating progressive spinal degeneration)に苦しみ、ほとんど寝たきりであった。しかし、この難病にもかかわらず、ババ氏は活発にリーダーシップを発揮した。コミュニティには、病院、学校、ワークショップがあり、以前の裸地をハンセン病他の障害のある人たちが緑の庭に変えていた。

 ダライ・ラマ法王は、ババ氏のベッドの傍らに座り、その手を握られ、こう話したことを想起する。

「私の慈悲がまさに話だけであるのに対して、彼がしたことはすべてが輝いたと、私は彼に話しました。行為する慈悲の生きた事例、私たち誰しもへの激励である者がここにいると」

 現在、アナンダワンは、2000人以上のハンセン病患者と100人以上の彼らの子どもたち、さらにまた別の数百人の盲目や聾唖の子どもたち、さらに、未婚の母から生まれた孤児をケアしている。

 普通の社会基準からすれば、こうした人々は、アウトカーストやのけ者(pariahs)として扱われ、ストリートでのみすぼらしい物乞いに追いやられるのが常である。けれども、ババ氏は、自分が建設したコミュニティで彼らとともに生きた。ダライ・ラマ法王は言う。

「私がそこを訪れたとき、誰しもが平等で、自尊心と尊厳に満ちあふれていました。全員に仕事があり、整形が成り立ち、年老いて引退した後もケアされました。障害をもっていても活力に満ちていました。私は、本当に印象づけられたのです」

 ババ氏は、ただ淡々とこう語る。

「慈善事業は破壊します、仕事は作り出します」

 アナンドワンの居住者は、カーペット、学校のノート、再生紙からのグリーティングカード、ハンセン病患者用の金属のベット枠、松葉杖、特別な保護用のはきものまで、製品を製造して自分自身で支え合う。

 ババ氏は2008年に他界したが、いずれも医者である2人の息子が、その仕事を運営している。最新のリポートによれば、アナンダワンと二つの姉妹コミュニティでは5000人以上が雇用されている(p122)

「彼らのメンタルな態度は大きな違いを産み出します。仕事が彼らに自信や自尊心を与えています。ですから彼らは熱意に満ちています」と、ダライ・ラマ法王は語る(p123)

チベット人や黒人は知的に劣っているのか?

 ババ氏と同じように、ダライ・ラマ法王も困っている人たちの支援にあたり、人々が自力更生することを強調される。

「貧しい人たちは、自分では更正できないと感じます。ですが、それが、彼らが変わる必要があるポイント、困難さの根本原因なのです。彼らには、それ以外の誰とも同じ可能性があります。ですから、自分自身の能力を信じて、努力する必要があります。そして、同じ機会を与えられ、平等たりえるのです」

 中国の共産党の当局が「チベット人の脳は劣っている」とのプロパガンダを広めたため、一部のチベット人たちは自分自身が駄目だと思うようになったことをダライ・ラマ法王は披露する。けれども、同じ学校教育やチャンスを手にすれば、チベット人も同様に行うことができ、結局、自分たちが劣っていなかったことを多くのチベット人たちが確信するようになったのである。

 ダライ・ラマ法王は、南アフリカのソウェト(Soweto)のスラム街のことを例に引く。一人の男性から「アフリカ人の頭は劣っていて、白人のように知的ではありえない」と告げられたのである。ダライ・ラマ法王は、これにショックを受け悲しまれた。

「私は、まったく間違いだと主張しました。科学者に肌の色による脳の違いがあるのかどうかを問いかければ、彼らは、違うと言うでしょう。機会があればあなたは頑張らなければなりません。あらゆる点であなたは平等でありえるのです」

 ダライ・ラマ法王はアフリカ人にも大きな可能性があり、長い植民地支配がアフリカ人たちに自信不足をつくったのであり、チベット人と同様に、社会的な平等、機会や教育によって、それは克服することができるとその男性が信じるように精力的に論じた。長い議論の後、その男性はため息をついて、低い声でこう言った。「いま、私は誰もが同じだと確信しています。自分たちが平等であると信じます」(p123)

「私は、相当な安心感を得ました」とダライ・ラマ法王は想起される。「少なくとも1人の人の考え方は変わったのです」(p124)

リーダーとしての女性

Malala-Yousafzai.jpg ある日、パキスタンの僻地、スワート渓谷(Swat Valley)の学校に向かうバスに男性たちが乗り混み、マララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai,1997年〜)さんの頭を銃で撃った。ユスフザイさんが女性教育のスポークスマンとなっていたため、女性が教育を受けることを批判するタリバン過激派からターゲットとされたのである。けれども、マララさんの著作、「わたしはマララ(I Am Malala)」は世界的なベストセラーとなり、17歳と最も若い年齢でノーベル平和賞を受賞する。ノーベル賞はインドの児童の権利の活動家、カイラシュ・サティーアーティ(Kailash Satyarthi, 1954年〜)とわかちあわれた。インドの貧しい家庭の子どもたちは、織物工場で働かされたり、小さな炭鉱のトンネルを調査を強いられる等、生命の危険に曝されている。そこで、マララさんもカイラシュ氏も子どもたちの教育の権利に関して熱心である(p130)

 ダライ・ラマ法王は、銃撃で撃たれても回復したマララさんの強さにインスパイアされ、こう手紙で書かれた。

「あなたが続ける教育への基本的な権利を進めることは、ただ賞賛されるのみです」

ダライ・ラマ法王は、未来のためには、女性のリーダーシップが必要だと考えるが、マララさんは、その象徴と言える。なぜ、ダライ・ラマ法王は、女性によるリーダーシップが必要だと考えるのであろうか。ダニエル・コールマン博士が法王にそれを問いかけると、最初は脱線したように思える物語を語りはじめた。

 ダライ・ラマ法王の目を治療したあるスイスの医師は、法王を自分の小さな山小屋に招待するまで親しくなった。その医師は、ダライ・ラマ法王に自分の銃や壁にかけた彼が撃った動物の頭の剥製のコレクションを見せた。法王は、笑ってこう話した。「肉屋だ!」。

 この物語をした後、ダライ・ラマは法王は、問いかけに戻り、一般的に言って、狩猟は男性のスポーツ、男性が自分たちの家族のために食料を狩猟する必要があった太古の時代の残存物であると指摘された。

 そして、法王はまだリーダーシップの概念が明確化していなかった時代とその時期が重なると推測する。一部の歴史家、とりわけ、マルクス主義者は、当初、人間には階級的な区別がなくて、小集団で生活し、なんであれ所有物を共有していた主張する。そして、農業の発見によって人口が増えたときに、私有地や私有財産の概念がもたらされ、それとともに、窃盗も現れ、強盗が増え、人々はこうした犯罪を防ぎ、正義を実施できる強力な統治者の必要性を感じた。当時のリーダーシップには身体的な力が必要であったし、それが指導者が男性であることを支持した。それは、「英雄たち」が情け容赦なく殺害を行うことを意味した時代でもあったと、法王は指摘する(p131)

「けれども、時代は変わり、リアリティも変わります。そして、今はこれらを変える時です。ジェンダー、色で違いはありません。現代では平等なのです」

 社会的な基準や文化的な遺産が女性を平等に扱ってこなかった。そこで、リーダーシップを取る女性の数も公正さとは異なる。そこで、ダライ・ラマ法王は、こう語る。

「教育は多くの平等をもたらしました。私たちは、女性に責任やリーダーシップのある地位にもっとつき始めてもらいたいのです」

 現代は、人間のニーズに対してより敏感で、他者に対して思いやりのあるリーダーが必要とされているとし、暖かなハートを強調しつつ、女性の方が生物学的に男性よりも、苦しむ他者に対して同情できる傾向があるとダライ・ラマ法王は主張する。

 ここで、科学が鍵となる発見を提供する。脳をスキャンすれば、苦しむ誰かを目にしたとき脳内の痛みのセンターの神経がどのように反応するのかが明らかになる。女性の方が男性よりも感情を読む力が大きく、他者の苦しみに対する感度、すなわち、慈悲は、男性よりも女性の方が強い。データからは女性の方が慈悲への備えが自然にできていることがわかる。そこで、ダライ・ラマ法王はこう語る。

「女性たちは他者の痛みにより敏感で、より共感的なのです。ですから、生物学的に女性には慈悲に向けてより多くの可能性があります。人々をケアする看護士他は、ほとんどの場合、女性です」。そして、少しお茶目にこう言う。「大多数の肉屋は男性です」。

 これと同じ理由から、マッチョな政治指導者は、力をより誇示して危機を産みがちである。歴史から判断して、将来にはより多くのリーダーたちが将来女性となれば、暴力行為へのリスクがより少なくなろうと、ダライ・ラマ法王は推測される。

「多くの女性のリーダーたちが、慈悲のような人間の価値を推進するうえでより活発な役割を取るべきです」(p130)。もちろん、相手を思いやるリーダーシップは多くの男性にも見出せる。ダライ・ラマ自身がこうした特徴を体現しているではないか。とはいえ、一般には、慈悲は女性でより自然に発現される。なればこそ、より多くの女性たちがリーダーとなるためにも、マララさんが受けたような明白な抑圧からより巧妙な抑圧まで、全世界の社会での女性たちが置かれている不平等な処遇は廃止されなければならないとダライ・ラマ法王は主張されるのである(p131)

ソーラーパネルの学校

 Kamala-Devi.jpgカマラ・デビ(Kamala Devi)さんは、インドのラジャスタン州の貧しい村の出身だが、現在では、ソーラーパネルでの発電の技術者として、ソーラーパネルの維持設置のノウハウを貧しい女性たちに教えている。デビさんがソーラーパネルの存在を最初に知ったのは、彼女が通っていた夜間学校が灯油ランプの代わりにソーラーを用いていたからである。

 地元の習慣として、カマラさんは早く結婚し、日々の仕事を終えてからでなければ夜間学校に通うことすらできなかった。そして、夫や家族の教育を受けることへの反対を押し切ることも必要だった。けれども、カマラさんがラッキーであったのは、夜間学校で、ソーラーのエンジニアのトレーニングのワークショップに参加することができたことであった。そして、そのワークショップがカマラさんの人生を変える。

 女性がソーラー機材を組み立て、かつ、修理できるはずがない。男たちは馬鹿にしていた。けれども、数カ月のトレーニングを受けた後、カマラさんはそのテクニックに精通し、いまでは、同じような女性たちをトレーニングするため、地元で学校も開いているのである(p133)

 Sanjit-Bunker-Roy.jpgその学校やカルマ・デビさんが受けたトレーニングは、ダライ・ラマ法王の友人、サンジット・バンカー・ロイ(Sanjit "Bunker" Roy)氏が1972年に創設した「裸足の大学」のミッションの一部である。

 最も貧しい地方で女性たちの社会的経済的なステータスを高めることで、大学は、女性たちの伝統的な役割を見るやり方を変えるだけでなく、公衆衛生も改善している。子どもたちは、より食事や教育を受けている。

 ロイ氏はインドの特権階級の出身である。1965年に大学を卒業した後、貧しい者を助けるとのマハトマ・ガンディの教えにインスパイアされ、飢饉で苦しむビハール州の農村でボランティアを行った。そして、ラージャスターン州のティロニア(Tilonia)村で井戸掘りのために5年働き、後にここに「裸の大学」を設立し、ソーラー・エンジニアのトレーニングを始める。ロイ氏はラージャスターン州の農村に40年以上も居住している。

 裸足の大学のトレーニングはユニークである。学生たちは、典型的には無教育の女性たちである。けれども、卒業後にはソーラーの専門家として故郷に戻り、新たなステータス、尊敬を得られるようになるのである。

「私にとって、最高の投資は、祖母たちをトレーニングすることです。こうした40〜50才の女性たちは文盲です。ですが、彼女たちは最もスキルがあり、最も寛容で、多くの勇気があります」と、ロイ氏はダライ・ラマ法王に語る。

 文盲のために授業は印刷された紙ではなく、ジェスチャーやデモンストレーションを通してなされる。 けれども、文盲の人向けに組まれているといってもその授業内容は専門的な技術知識を省いてはいない。生徒たちは、充電コントローラやインバーターといった機器の作り方を学び、どのようにソーラーパネルを設置して、それをどのように地元の送電線につなげるのかを学ぶ。ティンブクトゥ(Timbuktu)から陸路で2日、ボートで7日もかかるマリの村のように孤立した集落出身の女性さえもエンジニアとしてトレーニングできる(p134)

国の発展はまず農村から

 裸足の大学は何百人ものソーラー・エンジニアを養成している。アフリカの21カ国、アフガニスタン、そして、インドでは約600の村落を電化した。照明が得られれば、夜間に手仕事をすることも可能である。福収入を稼げ、これまで低い地位におかれてきた年上の女性たちが、貴重なスキルを手にした賃金労働者に生まれ変わる。子どもたちも、日中に牛やヤギの世話をした後、夜間学校に通えることを意味する。7000人以上の子どもたちが、裸足のカレッジが設立し、ソーラー電化された約150の夜間学校に通っている。裸の大学の農村の貧しい人々に対するそれ以外のサービスは、ヘルスワーカーたちが用いる指人形である。多くのインドの農村地域ではいまだにラジオやテレビがないが、そうした所でも、人形使いはメッセージを広げている。

 チューリッヒで開催された「心と生命の会議」の「利他主義と慈悲の経済の会議(conference on altruism and compassion in economics)」で、ロイ氏はダライ・ラマ法王に「なぜ、あなたは妻を叩くべきではないのか。なぜ、きれいな飲料水が必要なのか。なぜ、子どもたちを学校に通わせなければならないのか、といった社会的なメッセージについて話した」こう語る。

 ダライ・ラマ法王は彼の手を取られ、それから、ロイ氏にこう話された。

「インドの本当の変容は農村や村から始まらなければなりません。そして、あなたは本当にそうされました。これは、いかにして国を助けるかのやり方で、それ以外の世界、とりわけ、南側の世界への事例です」(p135)

 インドに亡命する以前、ダライ・ラマ法王は、1955年に中国を訪問するとき、グローバルな貧困を緩和するための農村発展の重要性を最初に知った。この旅で、ダライ・ラマ法王は、当時の上海市長とあったのだが、市長は「上海そのものよりもむしろ農村を確立することに中国の経済発展の鍵があると感じると」語ったのである(p135)

「それは、社会主義的な考え方ですが、農村地帯の大多数の困窮した貧しい人々を支援するために多くの資金を用いることは国を建設する際に非常に役に立つ方法です」

 ダライ・ラマ法王は、台湾や日本の効率的に機械化された小規模な農場を見てそうした印象を受け、そこでは、農民は繁栄しているように見えると語る。

「インドや中国等の本当の国の変化は、2、3の大都市ではなく、農村地帯で起こらなければならないと、私は常に言っています」

 そして、バンカー・ロイ氏に向けて、「インドのグルは、カール・マルクスからでなく!」とジェスチャーされた。法王は、インドのチベット人たちの居住区のためにソーラー・エンジニアリングを教えてくれるようバンカー・ロイ氏に依頼した。ロイ氏は、即座にこれを受け入れた(p136)

【画像】
ババ・アムテ氏の画像はこのサイトより
マララ・ユスフザイさんの画像はこのサイトより
カルマ・デビさんの画像はこのサイトより
バンカー・ロイ氏の画像はこのサイトより

【引用文献】
Daniel Goleman, A Force for Good: The Dalai Lama's Vision for Our World, Bantam,2015.
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2017年08月06日

法王猊下のエコノミーD 慈悲の教育

つながりのための学習

Roberta-MurphyS.jpg 曇った、12月の寒いある日のこと。マサチューセッツ州のノーサンプトン(Northampton)にある『スミス・カレッジ・キャンパス校(Smith College Campus School)』の教師、ロベルタ・マーフィー(Roberta Murphy)先生は小学校2年生たちにクレメンタインが入った小さな木枠を見せた。クレメンタインとは温州みかんに似たマンダリンの一種である。カナダでは、簡単に皮が向ける種無しのクレメンタインが、冬季に販売されるのである。歓声をあげる8歳の子どもたちを前にマーフィー先生はこう問いかけた。

「クレメンタインはこの近くでは育ちません。どうしてここにはあるのでしょう」(p150)

 子どもたちは、クレメンタインの旅についてブレーンストーミンングを始める。誰かが農場で育て、それを摘み、箱に入れて、ステッカーを張り、それをマーフィー先生が買った店まで送り込んだのである。彼女は地球儀で、クレメンタインがモロッコからきたことを子どもたちに教え、さらにこう問いかける。

「私たちの暮らしにクレメンタインがあるには何人がかかわっているのでしょうか」

 育てる農民、収穫作業をする人、箱を製造する人、トラックの運転手、船や飛行機のパイロット、店員、そして、トラックの製造者、船舶の製造者、飛行機の製造者、店舗の建築者、さらにトラック、船舶、飛行機用のための燃料を確保する人たち。トラックや船舶用の鉄鋼を作る人たち。子どもたちがあげた推測は、20〜数百人に及んだ。

「そう。この12月にノーサンプトンでクレメンタインを手にするには多くの人たちが必要なんです」

 マーフィー先生は、また別の大きい考えを子どもたちに考えさせる。

「紙の中には雲があります。紙用のパルプを製造するには水が必要だからです。つまり、世界のすべてはつながっているのです」。

 7、8歳の子どもたちは、地球の自然生態系がどのようにグローバルなサプライチェーンと関係してくるのかをかいま見始める。

 ひとり一人の子どもが一個のクレメンタインを持てるようにマーフィーさんはそれをパスしてまわしながら、クレメンタインを素材に、マインドフルなステップを指導していく。

「皮をむいて、その匂いをかいで、慎重にその部分のすべてを見て、その実がいかに美しいのかを見てください。クレメンタインにすべての注意を集中してみてください」

 それから、マーフィー先生はさらにガイドしていく。

「このことを可能にした人たちのうち一人のことを考えてください。目を閉じて、その人を想い描いて、穏やかに『ありがとう』 と感謝の言葉を送ってください。それから、別の人を選び、感謝してください」

 静かに1分、2分がすぎた後、マーフィー先生は尋ねる。

「さあ、皆さんが思い浮かべた人は誰ですか?。船の船長でしたか。木を育てた人でしたか。お店の人たちでしたか。飛行機用の金属を作った人たちでしたか...(p151)。そして、彼らが幸せでありますように。素敵な人生を送れますようにとの願望を持てましたか」

 このエクササイズによって、小学校2年生のマインドは少なくとも3方向で広げられた。第一に、クレメンタインに注意を払うことで集中力が鍛えられた。第二に、クレメンタインを食べることが可能にしてくれた人たちが幸せであるようにと願い、感謝することで、ケアの輪が広げられた。第三に、モロッコから学校までクレメンタインを持ってきた人たちのつながりを認識することで「システム思考」がなされた(p152)

互いに評価するための学び

 スミス・カレッジ・キャンパス校のエミリー・エンドリス(Emily Endris)先生の5年生たちは、輪になって座っている。子どもたちは、相手をよく観察し、賞賛することを気づくトレーニングをしている。

 エンドリス先生は、お互いの目を見るように命じる。「相手の話をよく聞いてさえぎらない」「いつも体育で頑張っている」「水飲み場にいくと、高いものをいつも使わせてくれるので嬉しくなりました」「よく微笑んで、いつも幸せそうです」

 このように評価をしてもらった人は、してくれた人に感謝して、それを次の人に与えていく。多くの微笑といいフィーリングが産まれる(p186)。本当に相手に対して注意を払うとき、気がつかなかった人の別の面がわかってくる。

 これらのエクササイズは、スミス・カレッジでいま進められている研究の一部である。マーフィー先生やエンドリス先生は、マインドフルネスと慈悲を強化するための小学生向けのカリキュラムを構築するイニシアティブ、『ケアへの呼びかけ(Call to Care)』の一部として、クレメンタインや相互評価エクササイズ(mutual-appreciation exercises)の学習を試みているのである(p187)

ケアへの呼びかけの必要性

 近年、ビジネスや医療現場のみならず、学校教育の場においても、マインドフルネスがトレンディとなっている。『ケアへの呼びかけ』は、関係性への気づきを広げ、これに気づかい(thoughtfulness)、思いやり(concern)、慈悲を加える。

 Samel-IntratorS.jpgスミス・カレッジ・キャンパス校のサムエル・イントレーター(Samuel Intrator)教授は、ダニエル・コールマン博士に対して、これまで以上に、どのようにして他者とつながっているのかを教える必要が学校にはあると語る。

「学校におけるマインドフルネスの多くは、個々の学生に対して内なるワークのツールを与えます。自分自身の心を落ちつけて関係性について考える一助となるのであれば、マインドフルネスは学校現場にも適しています。ですが、教室は忙しく、雑然としています。どのように、他者とからみあい、つながり、わかちあえばよいのでしょうか」。

 カレッジ・キャンパス校が「ケアへの呼びかけ」のパイロットサイトとなったのは偶然だった。数マイルしか離れていない隣町に偶然『心といのちの研究所(Mind and Life Institute)』があったからだった(p187)

 Arthur-Zajonc.jpg『心といのちの研究所』は、ダライ・ラマ法王と科学者たちとの対話を進めるために当初設立されたのだが、近年、研究所のアーサー・ザジョンク(Arthur Zajonc,1949年〜)代表は、教育の再考を含めた幅広いミッションに取り組もうと訴えている。ダライ・ラマ法王自身が寄付を行い、こうした「ケアへの呼びかけ」を立ち上げることが可能となった。法王はそのカリキュラムが世界各地で実施されることを望み、このため、米国だけでなく、ベトナム、ブータン、ノルウェー、イスラエル他の学校も参加することとなっている(p188)

 ダライ・ラマ法王は、世界各地を旅する中で、自ら「ケアへの呼びかけ」プログラムをモニタリングされ、それに興味を抱く教育者たちをつなげたがっている(p188)

現在の教育には慈悲が欠落している

 南バンクーバーにあるジョン・オリバー高校(John Oliver High School)は、フィリピン、東南アジア、中国等からの移民労働者階級からなる地区にある。ジョン・オリバーの学生の多くは、移民の子弟で、一生懸命に勉強することで両親たちの成功の夢を実現するように努力している。けれども、高い学業成績そのものは完全な教育を表さないと、ダライ・ラマ法王は主張される(p178)

 ダライ・ラマ法王は、『ハードとマインド教育(Educating Hearts and Minds)』の個人的なセッションの間に、このジョン・オリバー高を訪れた。数百人の学生たちがこのイベントのために体育館に集まり、地域全域の3万3000人の他の学生のためにもライブで放送された。

 ダライ・ラマ法王は若者たちにこう語りかけた。

「私は老人です。ほぼ80歳になります(p181)。私の人生はほとんど終わっています。ですが、皆さん方の人生はまさに始まっています。皆さんが、人類の幸せのために貢献をするかどうかにかかわらず、皆さんが幸せな人生を送るかどうかは皆さん方次第なのです。

 私には、様々な人たち、指導者や尊敬された科学者、乞食やスピリチュアルな実践者と出会う機会があります。そして、幸せな人生が豊かさには依存せず、さらに、良い家族にさえも依存しないことを確信しています。

 私は、いつも毎日、BBCを聞いています。私たちの世界には多くの痛ましい出来事があり、多くの問題や暴力があることをニュースは告げています。そして、こうした問題は人間が作り出したものなのです。けれども、こうした問題を引き起こしている人たちは頭が良いことが多いのです。それは、内なる平和や道徳的原則が今日の教育に欠落していることを示しています。そして、力でこれを変えることはできません。そして、宗教的な説法も、無信仰者は言うまでもなく、地球上の全数10億人に達することはできません。そして、唯一の方法は、誰しをも幸せにしたいという普遍的な善を目指す教育を通してなのです」。

 千年前の西洋では、教育は教会が扱ってきた、とダライ・ラマ法王は述べる。けれども、教育への宗教の影響力が何世紀も弱まり、とりわけ、科学やテクノロジーが発達したため、ケアや責任についての教えも弱まり、現在の教育の基礎は、ほとんど唯物論的(materialistic)になっていると指摘する。

「このシステムで育つ人たちは、内なる価値の重要性を学ばず、むしろ、進歩、マネー、そして、物資的な価値がより重要だと思いがちです。ですから、いかにして、これにバランスを持たらすことができるかが大切なのです」(p182)

 ダライ・ラマ法王はこう続ける。

「多くの学生たちは、お金持ちになることを狙ってビジネスや経済学を学んでいます。疲れも知らず、十分な睡眠も取らず、いつも忙しく、忙しく、忙しいのです。まさに自分自身に対しても慈悲がないのです。もし、ただあなたが利潤をあげたいだけであれば、大切なものがお金だけであれば、富める者と貧しき者との格差は広がります。そして、あまりにも多くの暴力があれば、そこには巨大な苦しみがあります。ですから、世界を助けることは、それを慈悲、あるいは、責任感との感覚と呼ぶか否かにかかわらず、それはあなた自身の利益なのです」(p183)

「私たち誰しもにとっての未来は、いかにこうした問題を扱うかにかかっています。そこで、問いかけがあります。何をするべきか。その方法とは、教育です。ですが、もし、私たちの教育制度が、取り組むべき課題に注意を払わなければ、問題は増えていきます。そして、それは誰も望みません」(p183)

 人間には自分の血縁関係者だけを愛する生物学的な素質を持つ。けれども、今日のようにそれぞれが相互連結した世界では、個々の血縁集団を越えて慈悲を広げる必要性がある。その慈悲を広げる道具として、ダライ・ラマ法王は教育に着目する(p183)

子どもたちは善人として生まれてくる

 ダライ・ラマ法王は、人間は親切な性質をもって産まれてくるとの信念がある(p183)

「出生時から、乳児は母親と一緒にいる幸せを知っています。そして、あらゆる幼児は親の膝元で安心を感じます。子どもたちは、自分たちの感情の基本を直観的に知っているのです。例えば、幼い子どもたちに怒った先生の顔と微笑んだ顔を示して『どちらの顔が好きかい』と聞けば『微笑んでいる顔』と答えるのです(p189)

「子どもたちが幼いときには、これは全く生きています」と、法王は言う。とはいえ、子どもたちのこの部分の性格は開発されないまま終わることもある。しかも、既存の教育制度では、その多くが強調されていない。それどころか、それとは逆の疑惑や怒りを産む影響にさらされる。

「私たちは子どもたちの中のポジティブな面のための教育を必要としています。さもなければ、それは休止したままです。私たちはこのポジティブな面を引き出す教育を必要としています」

 けれども、近代の教育制度は健康なマインドの部分を無視している、そうダライ・ラマ法王は指摘する。法王の見解からすれば、近代教育は、モラル、倫理、そして、幸せの探求においては誰しもが平等というひとつの人間家族の感覚、法王が「人類の統一性(the oneness of humanity)」と呼ぶものを欠いている。

「見失われているのは、道徳的な原則です」。

 ダライ・ラマ法王が、教育改革の切迫した必要を感じ、新たなアイデアや新たな思考に基づく運動、「近代教育の革命」を呼びかけているのはそのためなのである(p183)

科学に基づく慈悲の教育

 けれども、ダライ・ラマ法王は、慈悲的価値観に対する盲信的な教育をしようとは主張しない。それよろいも、むしろ、他者に対する思いやりが心の平安や身体の健康といかに関連するのかを示す科学を重視する。そして、それによって、そうした価値を教育に戻すことができると主張される(p182)

 カナダのバンクーバーにあるウォルター・モベリー小学校(Walter Moberly Elementary School)の4、5年生を前にダライ・ラマ法王はこう語る(p177)

「私たち基本的には、人類という大きな家族の一員で誰もが同じです。会ってみれば、誰もが同じ感情、同じ心や身体を手にしていることがわかります。そして、誰もが友情のように同じものを好むのです」(p177)


ダライ・ラマ法王を招待したジェニファー・エリクソン(Jennifer Erikson)先生は子どもたちに尋ねる。

「感謝することはなぜ役立つのでしょう」

 一人の女の子が答える。

「十分にモノがなくても感謝すればふさぎ込まずにすむからです」

 別の男の子はこう言う。

「化学物質、ドーパミンが放出されることで嬉しいと感じさせるからです」

 ダライ・ラマ法王は、科学的な回答に満足され、「まったく正しい」と言われた。

 さらに、女の子がこう付け加える。

「感謝は、別の人も幸せにします」

 また、別の子どもがこう言う。

「感謝すると穏やかさを感じさせます」

「穏やかさ。そう。その通り。それはとても重要な感覚です。素晴らしい!」と、ダライ・ラマ法王は同意される。

 エリクソン先生が説明する。

「この子どもたちは、他者がどのように感じるのかを理解することを学んでいるのです」(p178)

 モベリー小の5年生、シムラン・デオル(Simran Deol)さんが、EEGを被って、目の前に示されるポイントに意識を集中する。ブリティッシュ・コロンビア大学の大学院生が機械を操作する。ポイントに意識が焦点していれば、スクリーンに投影された大きな線が上に動く。そして、気が散ると下がる。ダライ・ラマ法王は熱心にその様子を観察された。

 二人の友人が彼女に近寄って話かけ、袖を引くと線は下がった(p179)。そこで、ダライ・ラマ法王はシムランさんを指導した。

「マインドを鍛えるときには、メンタルなレベルと感覚レベルとを区別することが役立ちます。あなたがポイントを見ているときには、それは感覚レベルで眼で意識しています。目の意識に頼れば、目の前のポイントはとても限られたものになります。けれども、メンタルなレベルでは、目の意識を無視することができます。集中する対象がマインドの中にあれば、たとえ周囲が騒がしくてもよく集中できます」

 ダライ・ラマ法王は、『心眼(mind's eye)』をイメージするようアドバイスされた。そして、シムランさんは言われたメンタルなイメージに意識を集中するように目を閉じた。線は再びじりじりと上がった。友人がまた気を散らしたとすると再び傾いたが、集中を集中すると再びあがった。

 ジョアン・マーティン(Joanne Martin)先生が、シムランさんのクラスメートに、脳の中で何が起きているのかを質問する。

「意識を集中したとき、多くのニューロンがつながっています」と一人の生徒が答えるとダライ・ラマ法王は喜ばれた。

 ダライ・ラマ法王は、誰か怒りたくなるような人が現れたとき、友人から怒りたくなるようなことをされたとき、1点に焦点することを勧められた。

 この集中の訓練は教育にとっても多くの意味を持つ。というのは、集中するときには、破壊衝動を抑えるのと同じ神経回路が作動し、それは学習の準備のための神経回路だからでもある。感情マップから示されるように、ネガティブ感情があると気が散るが、集中するほど、そうした感情はなくなっていく。

 そこで一人の生徒が尋ねた。

「どうすれば、僕たちは毎日、意識を集中して、幸せになれるのでしょうか」

 ダライ・ラマ法王は、飛行機を例にとって答えられる。

「空を飛ぶ大きな飛行機をイメージしてみましょう。飛行機が大気中にとどまっているのを助けているあらゆる役割を理解することはとても難しいことです。それはマインドや感情でも同じです(p180)。わずかな感情が私たちの心をかき乱します。別のものは、例えば、心が静まるのを助けとても役立ちます」

 そして、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の人間相互関係研究所ポール・エクマン(Paul Ekman,1934年〜)所長が描くことを奨励する「感情マップ」の使い方を示唆された。

「長期にわたって心の平安を開発するためには、『感情マップ』についての多くの知識が必要です。善悪を考慮することなくただ気づいている。それから、毎日の経験にそれを適用してください。このことについて認識していれば、日々の経験でも、いつ苛立っていて幸せではないのかに気づくことができます。自分を分析できます」

 ダライ・ラマ法王は、苛立ちが、恐れ、怒り、疑念と同じ感情の家族の一員であり、これとは逆の穏やかなマインドのグループには、自信、慈悲と愛情があると指摘され、「こうしたポジティブな状態は、心の平安がもたらされる」と語られた。

「恐れや怒り。かき乱された心は有害です。血圧は上がり、ストレスを感じ、眠れなくなり、怖い夢を見ます。ですが、それに対抗するためにはどうすればよいのですか。ドラック、アルコールですか。外的な手段ではありません。心の平安を開発するには時間がかかります。この感情シフトは一晩では起こりません。ですから、いくらかのトレーニングを必要とするのです」(p181)

いま幼稚園児である子どもが将来、偉大な学者や科学者になる望みを描いている両親がいるとしよう。けれども、両親にも、それには段階を踏んだ長期間の教育が必要なことがわかっている。それはハードを育てることでも同じだとダライ・ラマ法王は言われる。

「子どものマインドもステップ・バイ・ステップで長年にわたって同様に発展し、徐々に慈悲的な態度を養うのです」(p189)

幼稚園児から教えられる社会的・感情的学習

Victor-ChanS.jpg ダライ・ラマについて2冊の著作があるビクター・チャン(Victor Chan,1945年〜)氏が、ダライ・ラマに初めて会ったのは1972年のことである。そして、2004年、心の教育の必要性についての公開対談を行うため、ダライ・ラマ法王をバンクーバーに招いた。これが、契機となり、チャン氏は「ダライ・ラマ平和教育センター(Dalai Lama Center for Peace + Education)」を立ち上げ、カナダの全州の学校で『社会感情学習(SEL= social and emotional learning)』が含まれる引き金となった。この学習はセンターの活動の中心となり、2013年では、ブリティッシュ・コロンビア州では90%の学校にこうしたプログラムが設けられている。

 社会感情学習には様々な形があり、全世界では100以上ものカリキュラムがあるが、端的に言えば、感情面での精神衛生と慈悲、共感や協力を高めるスキルである(p184)

 その後、バンクーバーを訪れた際、社会感情学習が普及していることを耳にされて、ダライ・ラマ法王は喜ばれた。ただ、教員たちがその指導方法でのトレーニングを受けていないことに驚かれた。そこで、現在、ブリティッシュ・コロンビア大学では、教員教育にSELのトレーニングが含まれるだけでなく、初めての修士コースも設けられている。

 ジョン・オリバー高校で、ダライ・ラマ法王は、SELについてこう言われた。

「このワークについて懐疑を抱かれるかもしれません。ですが、1校、10校、そして100校とまさに結果がでています。日々、この種の教育では、日々、愛情と責任感を教えることができます。それは、あなた自身の幸せにも、あなたの家族の幸せにもとても重要です。そして、家族がより慈悲的になれば、社会もより慈悲的になります。これは人類の生存のためになります」

 ダライ・ラマ法王は、ブリティッシュ・コロンビア州で1600校と50万人の子どもたちがこれを受けることを希望しているとビクター・チャン氏は言う(p185)

 SELや「ケアへの呼びかけ」は、科学的にもきちんと評価される必要がある。パイロット校では、学校や同級生とのつながり感が喧嘩やいじめ、出席率といった基準上で効果が評価されている(p188)

Kimberly Schonert-Reichl.jpg ブリティッシュ・コロンビア大学のキンバリー・スコナート-ライクル(Kimberly Schonert-Reichl)教授は人々の対立といった問題を解決し、気を使い、平和的にうまく行う5歳の子どもの能力を評価するため、教授は「ハード・マインド指標(Heart-Mind Index)」をデザインしている。そして、SELの効果を研究をしているのだが、教授の研究からは、教師から感情的にサポートされていると生徒たちが感じるときに、より楽観主義的で、自制力があり、健康(well-being)であることも示される。貧しい地区出身の若者は長期的には心臓病にかかるリスクがあるが、彼らも幼い子どもたちをボランティアで教えることで、心血管の健康が改善されることがわかっている(p185)

 SELのプログラムは、いま何百万人もの子どもたちが世界中で経験しているが、このプログラムを受けた生徒と受けなかった生徒を比較した27万人以上のメタアナリシスから、このプログラムによって出席率があがり、授業中の履修態度も10%も高まり、いじめや暴力等問題が減ることがわかっている。さらに、学校の成績も11%あがる。つまり、心がクリアになることで、良く学べるようにもなるのである(p186)

 SELのカリキュラムは、理解、共感や感情の微妙なニュアンスがわかる大学生の年齢になれば最も完璧に適したものとなるが(p190)、幼稚園からも生徒たちのカリキュラムの一部とすることができ(p189)、SELのレッスンは一般に子どもたちの人生にすぐに適用できる(p190)

 ダライ・ラマ法王は、事例をあげられる。意見の相違や対立があれば、子どもたちは力を通じて戦う代わりに意味がある対話を通して問題を解決しなければならないことがわかる。そして、この反応は、ごく自然に思考の一部とならなければならない(p190)。

 ダライ・ラマ法王の望みは、不健康な心の状態への反応が、手が汚れればそれを洗うのと同じほど自動的で自然なものとなり、数学と同じように、将来、このアプローチが教育の国際基準の一部になることである(p188)

 さらに、子どもたちは、こうしたやり方を家族に戻さなければならない。例えば、両親が喧嘩する姿を見れば、だめだよ。正しいやり方じゃないよ。喧嘩しないで話さなければ」というのである(p190)

環境への慈悲があれば行動が変わる

 現在、ほとんどの人たちは環境に対する懸念を重視していない。とはいえ、今後、エコロジー的な危機が深まり、子どもたちはこれまで以上にひどい状況下で暮らすことになれば、意識も行動への動機づけも高まる。

「ですから、さらに多くの教育が非常に大切なのです。環境に気を配り、その責任を負い、地球をケアできるように、子どもたちを教育する必要性があるのです。」と、ダライ・ラマ法王は言う。

「もはや手遅れかもしれません。ですが、私たちは、地球をケアすることが私たちの人生の自然な一部となる教育を必要としています」

 ダライ・ラマは、環境に関する会議でこう言う。

「若者と老人との違いのひとつはフレキシビリティと心の広さだと私は考えます。私のような老人は考え方がより固定化されていますが、若者は新たなアイデアに注意を払います」

 そして、こう付け加えた。「私は前世紀出身の人間です。そして、我々の世代が数多くの問題を生じさせました。今世紀の若者たちは、いま、地球の本当の人間性です。たとえ地球温暖化が進行するにせよ、彼らは兄弟姉妹のスピリットで協働でき、アイデアをわかちあい、解決策を見出すことができます。彼らは、我々の本当の望みなのです」(p152)

 地球温暖化問題から政治の腐敗、経済格差、紛争まで、長い目で見れば、正しい教育が問題解決の助けになるとダライ・ラマ法王は考える。そこで、ダライ・ラマ法王は、近代学校教育には抜本的な改革が必要だと考え、慈悲的な価値観を持って生きるための「ハート」の教育を呼びかける。ハートを教育すれば、慈悲やケアへの脳回路が強化され、この教育を受けた人々はまったく新たな経済行動をすることになる(p179)。慈悲の倫理をもって協力を教えれば、ただ口先で言うだけよりも、むしろこうした価値観に立脚して行動することが可能となるであろう(p189)

  ダライ・ラマが心に描かれる教育の目標は、まさに良いマインドだけではなく善人なのである。

 もちろん、社会的感情的スキルの強調は、決して学力を軽じるわけではない。ダライ・ラマ法王は、学生たちの間での知的な競争を認める。けれども、「健康的な競争」は、自己への慈しみといった動機づけを意味し、他者が成功することを妬んだりはしない。

 ダライ・ラマ法王はプリンストン大学でこう観衆に語った。

「既存の近代教育制度は唯物論的な価値観に適応しています。健康的な人生を送るために、私たちは内なる価値観についての教育を必要としています。もちろん、あなたの高い学歴は保ってください。ですが、もし、それに暖かいハートも含まれれば、それはより完璧なのです」(p190)

【画像】
ロベルタ・マーフィーさんの画像はこのサイトより
サムエル・イントレーター教授の画像はこのサイトより
アーサー・ザジョンク氏の画像はこのサイトより
ポール・エクマン所長の画像はこのサイトより
ビクター・チャン氏の画像はこのサイトより
キンバリー・スコナート-ライクル教授の画像はこのサイトより

【引用文献】
Daniel Goleman, A Force for Good: The Dalai Lama's Vision for Our World, Bantam,2015.
posted by fidelcastro at 07:00| Comment(0) | ダライ・ラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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